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第39話 呼んでないのに返事をするな

第39話 呼んでないのに返事をするな

 四日目の道は、朝から乾いていた。

 雨が上がると、昨日まで外套を引っ張っていた枝が、今度は頭上で光を揺らしている。同じ木でも、機嫌のよい日はあるらしい。

 宿を出る前に聞いたところ、継ぎ場までの通行止めはなかった。

 見回りは前日も通っている。ただし森の区間では車を離しすぎず、音を返されても呼び返さないこと。入口の札にも、短い注意が書かれていた。

「返事をしない」

 オレが読むと、ゴルドが頷いた。

「借金取りには効かんぞ」

「そちらは、返事がなくてもいると分かるから」

 セラの声に、爺さんの背中が少し丸くなった。

 森へ入ってからは、冗談も短くなった。

 先頭にゴルド。前の車をイェナが御し、その斜め後ろにオレ。後ろの車の横にセラとオスム、最後尾にアルト。

 オレの役は、道と荷の様子を見て、気づいたら前後へ知らせることだった。

 役を聞いたときは簡単そうだった。

 実際には、足元を見れば枝が頬を擦り、枝を見れば轍へ足が入る。前の車を見る間は、後ろの車を見られない。

 目が二つあるから二方向を見られるわけではないのが、どうにも不便だった。

     *

 音は、左の奥から来た。

 りん。

 金属の澄んだ音に似ていた。

 オレはイェナの鈴の袋を見た。御者台の脇に結ばれ、口も閉じたままだった。

 イェナが片手を上げる。

 ゴルドが立ち止まった。

 後ろへ振り返り、オレも手を上げた。セラが気づいて、御者に車を緩めさせる。

 りん、りん。

 次は少し近い。

 返り鳴き。

 名前が頭へ出てきても、まだ姿は見えなかった。

「そのまま、ゆっくり」

 イェナが言った。

「ここで馬を止め切ると、横の草を気にする」

 ゴルドは道の左側へ移った。

 オレは右へ下がる。荷車と草むらの間を空けた。

 その足が、小さな石へ乗った。

 靴底が滑る。

 鞄の口が荷台の角へ当たり、蓋の締め方が甘かった金属の杯が落ちた。

 からん。

 道に響くには、十分すぎる音だった。

 左の茂みが、低く波打った。

     *

 灰褐色の獣が飛び出した。

 犬くらいの胴に、長い前脚。首の下の膨らみが震え、金物を落としたのに似た音を出している。顔は低く、目はほとんど地面ばかり見ていた。

 こちらへ来る。

 杯の方へ。

 オレは取りに戻ろうとした。

「触るな!」

 ゴルドの声で足が止まる。

 次の瞬間、獣の前脚が杯を弾いた。

 杯は車輪の前へ転がった。

 馬が首を上げる。

 手綱が張り、車の片側がぐっと持ち上がった。

 イェナは叫ばなかった。低い声で同じ言葉を繰り返し、馬の頭を正面へ戻そうとする。

 オレは、下がった。

 杯から手を離したまま、下がった。

 何かしろ、と頭の中で急かす声がする。

 落としたのはお前だ。取り返せ。片付けろ。

 でも、そのために車輪の前へ入れば、イェナは馬と獣だけでなく、オレまで避けなければならない。

 オレは荷台の角を掴み、身体を車の後方へ移した。

 その間に、ゴルドの棒が獣の肩へ当たった。

 拳ではなかった。あらかじめ荷台の脇から抜いておいた、荷を支える短い棒だった。

 獣は横へ転がった。

 喉から、ひび割れた鈴の音が出る。

 茂みの奥で、同じ音が二つ重なった。

「まだいます!」

 オレの声に、ゴルドが顎だけを動かした。

「見えた」

     *

 後ろの車は、止まっていた。

 御者が手綱を引き、セラが馬の見える位置へ回っている。アルトは長い荷竿を持ち、二台の間から草むらを見ていた。

 先へ抜ければいい。

 けれど道は狭く、その先で曲がっている。先頭だけを走らせれば、後ろが取り残される。

 イェナは馬を落ち着かせながら、前方を見た。

「曲がった先に、砂利の退避場がある。そこまで、二台一緒に動かしたい」

 オスムが荷台の下から何かを引き出そうとしていた。

 予備の車止めだった。

「今、要ります?」

 オレが聞く。

「車が動いたら、困ると思って」

「これから動かします。上に戻ってください」

 オスムは一瞬迷い、イェナを見る。

 彼女が頷いた。

 荷主は木の塊を戻し、自分も荷台の端へ上がった。

 皆、できることを探していた。

 そのできることが、同じ方向を向いていないときがある。

 オレは後ろへ走らず、二台の中ほどからセラに伝えた。

「先の砂利まで。二台で進みます」

「前だけ急がせないで」

 セラが答え、御者へ向き直った。

 草が鳴る。

 二匹目は後ろの車へ近づいた。

 アルトの竿が地面へ下りる。突くのではなく、獣と車輪の間に斜めの壁を作った。

 獣が竿へ前脚をかけた。

 アルトの肩が沈んだ。

「ゴルドさん!」

 オレは呼んだ。

 爺さんは前の一匹を追わず、こちらへ戻ってきた。

 棒の端が、獣の鼻先を払う。

 獣が離れた隙に、アルトが竿を引いた。

 手が震えていた。

 それでも竿を落とさず、すぐに車輪の横へ置き直した。

     *

 オレの杯は、道の真ん中にあった。

 最初の獣がもう一度そこへ寄り、鼻で押す。

 から、から。

 音が出るたび、奥の茂みが動く。

 拾えない。

 壊すにも近い。

 こんな小さな物一つが、全員の動きを縛っていた。

「鈴で、向こうへ呼べませんか」

 イェナに言った。

 彼女はオレを見なかった。手綱からも目を離さない。

「どこへ?」

 言われて詰まった。

 森の奥へ投げればよいと思っただけだった。そちらに別の獣がいれば増える。荷車の進む先へ投げれば、道を塞ぐ。

 ゴルドが棒を構えたまま、右の低い窪みを見た。

「右の倒木の先なら、馬の道から外れる。だが、遠くまで投げられるか」

「アタシは、無理です」

 今度はすぐ言えた。

 銅貨すら杯へ落とす腕で、ここだけ正確に投げられることにしてはいけない。

 ゴルドがイェナへ手を出した。

「一組、貸せ。鳴ったら動けるように」

 彼女は袋ごと鈴を渡した。

 爺さんは革帯を短く丸めた。金具が鳴らないよう、掌で包む。

 オレはセラへ合図した。

「今から右へ音を出します。車はそのまま前です」

 後ろの御者が頷いたのを見て、イェナへ頷く。

 ゴルドの腕が動いた。

 鈴が弧を描き、倒木の向こうへ落ちた。

 乾いた連続音。

 二匹が頭を上げた。

 最初の獣は、杯から離れた。

「今」

 イェナの声で、車輪が動いた。

     *

 三匹目は、ついてこなかった。

 いや、音へ向かわなかった。

 後ろの車の下、積み荷の陰から灰色の背が見えた。

 オレは息を呑んだ。

 獣は車軸の近くにいた。車が動き出して驚いたのか、前脚を上げ、後輪へ爪をかけようとする。

 アルトの竿を入れる隙間がない。

 ゴルドは前の車の右側だ。戻れば、車を止めなければならない。

 セラがオレを見た。

 その目が、手元へ落ちる。

 腰の袋には、手品用の小皿があった。

 オレはそれを出しかけた。

 もう一度、大きな音を出せば。

 その後、自分はどこへ行く。

 皿を持ったオレへ獣が来たら、逃げ切れるか。

 答えはすぐ出た。

 逃げ切れない。

「これ、使えます?」

 オレは小皿をセラへ差し出した。

 セラは受け取らず、車の後ろを指した。

「後ろへ置いて。投げなくていい。置いてから、こっちへ」

 馬と車輪から離れた地面へ、小皿を滑らせる。

 大きな音は出なかった。

 オレが下がったのを確かめてから、アルトが竿の先で皿を叩いた。

 きん。

 獣が、振り向いた。

 竿を引く。皿が鳴りながら、道の端へずれる。

 獣が車軸の下を抜けた。

 アルトは竿を捨てず、引きながら後退した。

 もう一度、皿を弾く。

 草の方へ飛んだ皿を獣が追ったとき、ゴルドがアルトの襟を引いた。

「下がるぞ」

 彼の靴が、一歩大きく戻った。

 後ろの車が、曲がり角へ入った。

 オレもセラと一緒に、その陰へ下がった。

 遠くで鈴が鳴り、近くでは車輪だけが鳴っていた。

     *

 砂利の広場には、街道の見張り小屋があった。

 イェナが呼ぶと、組合の見張りが二人出てきた。長い鉤を持ち、来た道を見てから柵を引く。

 オレたちは、そこでようやく車を止めた。

 馬の腹が速く動いている。

 アルトは竿を横へ置いた途端、しゃがみ込んだ。

「……手が、開きません」

 指が握った形のまま固まっていた。

 セラが一本ずつ動きを確かめる。関節を傷めたのではなく、力を入れ続けたためらしい。

 ゴルドの袖にも、細い裂け目があった。

 オレは自分の鞄を見下ろした。

 空いた杯の場所が、やけに大きく見えた。

「すみません。杯を、落として」

「結び目、見せて」

 イェナが言った。

 叱られると思いながら、袋を差し出した。

 彼女は紐の端を引いた。緩む。

「布を巻いたから、前より太くなってたんだね。いつもの結び方だと、端が足りない」

 オレは顔を上げた。

「音がしないようには、したんです」

「うん。落ちないようにする分が、変わってた」

 同じ失敗を、少し違うところから見せられた。

 ただ不注意だった、と言えば終わる。怖かった、と言っても終わる。

 紐は、それだけでは長くならなかった。

 イェナは予備の紐を出した。

「次は、これで引っ張ってみてから歩こう」

 オレは受け取った。

 指先が、まだ冷たかった。

     *

 見張りには、場所と頭数、音に寄ったことを伝えた。

 オレは、自分たちが鈴と皿を置いてきたことも話した。後の隊商が拾おうとして近づけば、危ない。

「回収はこっちでやる。次の便は、しばらく待たせるよ」

 見張りは札を裏返し、通行を見合わせる側へ変えた。

 討伐したか、とも、立派に戦ったか、とも聞かなかった。

 どの曲がり角のどちら側かを、二度聞かれた。

 オレは地面へ枝で線を引いた。

 荷車を二つ。倒木。小皿を置いたところ。

「ここです。鈴は、この先」

 描きながら、手の震えが少し収まった。

 説明できることがあると、さっきまで動かなかった舌も動く。

 ゴルドは袖の下へ布を当ててもらいながら、図を覗いた。

「皿は、もう少し右だ」

 直した。

 紙に描くために、見張りが写しを取った。

 オレの四角い荷車は、今度はちゃんと道の上に置かれた。

     *

 継ぎ場へ着いたのは、まだ日が高いうちだった。

 ここを使う予定は変わらない。先へ急ぐより、馬を休ませて、見張りから次の区間の話を聞くことになった。

 屋根の下で、セラがゴルドの腕を手当てした。浅い傷だったが、本人が浅いと言っただけでは済ませない。

 アルトの掌には、赤い線ができていた。

 オレは水を運んだ。

 水差しを握るたび、左手の甲がひりつく。転びかけたときに擦ったらしい。セラに見せると、ついでに洗われた。

 痛かった。

 大きな働きをしたあとだけ傷が痛むわけではない。失敗をした手にも、同じようにしみた。

「鈴と、皿と、杯」

 セラが紙へ書いた。

「今回の依頼で必要になった消耗として、精算に入れる。薬も」

「杯は、アタシが落としたので」

「次に落とさない結び方は覚える。それと、今日の精算は別。わざと投げ捨てたわけじゃない」

 オスムは横で頷いた。

「荷は無事です。途中で留まった分の食事も、こちらで手配します」

 オレは頭を下げた。

 誰も怒鳴らないことが、かえって胸に重かった。

 その重さを、次の結び目まで持っていこうと思った。

     *

 夕方、アルトが鍋を火へかけた。

 掌はまだ痛むので、固い根菜はイェナが切る。オレは匙を並べ、ゴルドは薪を折った。

「耳がなくても、呼ばれるんですね」

 オレが言うと、爺さんは首を傾げた。

「何にだ」

「面倒事に」

「向こうが勝手に来るからな」

「呼んでないのに返事をするし」

「人間にも多いぞ」

 セラが、じっとゴルドを見た。

 爺さんは薪をもう一本折った。

 鍋が煮立つ前に、オレは新しい紐で袋の口を締めた。

 一度、引く。

 もう一度、逆から引く。

 中には杯の代わりに、小さな木の碗を入れていた。継ぎ場で売ってもらったものだ。

 落としても割れにくい。音も小さい。

 だから落としていい、という話ではない。

 アルトに見てもらい、最後に自分でも確かめた。

「大丈夫そうです」

 彼が言った。

 その言葉が嬉しくて、オレは少し笑った。

 今夜の料理に使う塩を取り出そうとしたら、紐が固すぎて開かなかった。

「……ゴルドさん」

「修練が要るな」

 爺さんは、自分の財布を見せた。

 初めて、あの修練を笑えなかった。

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