第38話 四人分の席
第38話 四人分の席
荷車に座れる順番は、年齢では決まらなかった。
「今、周りを見ていない人から降りて」
イェナが言った。
ゴルドが片目を開けた。
「寝てないぞ」
「じゃ、その荷袋にいびきをかかせないで」
爺さんは黙って降りた。
最初の昼には、御者と護衛の力関係が大体定まっていた。
オレは後ろの車の横を歩く。車輪のきしみには、一定の間があった。ひと回りするたび、同じところで鳴く。乗っていると気になる音が、歩いていると足の運びを揃える目印になった。
道の脇では、背の低い白い花が揺れていた。
ハイベルの周りと似ている。似ているからこそ、曲がり角の先に見覚えのある畑がないことが不思議だった。
世界はどこまで行っても同じ景色なのかもしれない。
そう思った直後、岩の上から、首の長い鳥がこちらを見下ろした。
脚は二本。翼もある。嘴だけが、鍋の蓋をつまむ道具のように曲がっていた。
「食べられます?」
思わずアルトに聞いた。
「分かりません」
返事は早かった。
「何でも知ってるわけじゃないんですね」
「知らない物を食べない方は、知ってます」
頼もしい知識だった。
鳥は喉を膨らませ、金属を擦るような声で鳴いた。
ゴルドが見上げる。
「昔の教官に似とる」
「その方も、食べたことはないですよね」
「怒鳴られたことはある」
味の話では済まなかったらしい。
*
最初の宿場へ着く前に、道の番所があった。
木の柵と低い屋根。係の男は、車輪へついた泥を見てから荷札を受け取った。
灰鷲の紋章のある冒険者証は、ここでも通じた。
オレの証を見たところで、男の指が止まる。
「遊び人」
「はい」
「行き先は?」
「カルダスです」
「仕事か」
「護送と、調べ物です」
男はもう一度、証とオレを見比べた。
旅の外套を着ているのに、衣装の肩口は隠しきれていない。目がそこで止まるのは慣れていたが、今日は少し面倒だった。
どんな返事をすれば、最も早く終わるだろう。
笑って、宴会のお呼びがありまして、とでも言うか。場に合った嘘は、滑りがいい。
「登録職と、荷主さんの契約は別ですよね」
口から出たのは、取り繕った敬語だった。
男は眉を上げ、オスムを見る。
「雇ってるのは、こちらで間違いないんですね」
「四人です。契約書にも」
オスムが紙を示した。
男は頷き、証を返した。追い払われたわけでも、特別に認められたわけでもない。それだけのやり取りに、背中へ変な汗が浮いていた。
柵を越えると、イェナが御者台から言った。
「あそこ、鍛冶屋を連れたときも止まったよ。剣を打てても剣で戦えるのか、って」
「毎回、職業当てを?」
「たぶん本人は、確認してるつもり」
オレは証をしまった。
紙があるから一息で通ることもあれば、紙に一語あるために足が止まることもある。
それで紙全部を嫌いになるほど、旅は単純ではなかった。
後ろでは、セラが通行料の受領札を受け取っていた。
*
二日目の昼、オスムが荷札を取り違えた。
金具の箱を一つ、途中の店へ下ろす予定だった。似た箱が二つあり、どちらも蓋に同じ商印がある。
オスムは右の箱を指した。
イェナは動かなかった。
「上に黒い点があるのが、途中で下ろす方じゃなかった?」
「黒い点……ああ、待ってください」
荷主が帳面をめくる間、オレは箱を支えた。
軽い方の箱から、中で細かな金物が動く音がする。
「これは開けてもよいですか」
尋ねてから留め紐を外す。中身は皿のような金具だった。もう一方は蝶番。
店が頼んだのは蝶番だった。
「すみません。値札の方ばかり見て」
オスムは額の汗を拭った。
オレは荷札を両手で持ち、向きを揃えて差し出した。
その瞬間、指の角度だけが急に懐かしくなった。
白い長方形。相手の手より少し下へ出す。磨いた机。袖口から覗く、硬い金属の輪。
向かいの顔は見えない。
椅子の背へ触れる何か。
左の脇腹が、ひやりとした。
オレは息を止めた。
「ミアさん?」
オスムの声。
自分の手を見た。
紙の角を揃えたまま、差し出している。
「……どうぞ。こちらが、途中で下ろす分です」
声は出た。
札を渡したあとで、片手を脇腹へ当てた。外套の下にはいつもの身体があった。傷も、濡れたものもない。
後ろから、アルトが空の箱を持って通った。
「狭いですね。すみません」
彼が背後にいただけかもしれない。
狭いところで気配が動き、昔の怖さに似たものが勝手に疼いた。そう説明すれば、まだ日常の中に置いておける。
ただ、磨いた机はどこから来たのか。
オレは手を下ろした。
セラがこちらを見ていた。
何も聞かず、水袋だけを寄こした。
*
昼飯は店の裏庭で食べた。
オスムは荷物を減らせて機嫌がよかった。箱一つでも、上り坂では馬の負担が違うらしい。
「皆さん、カルダスの後は、どちらへ?」
「ハイベルへ戻る予定です」
セラが答える。
「では、今度も仕事が合えば。私の次便は少し先ですが」
オスムはパンを割り、半分を包みに戻した。
「調べ物って、商売の準備ですか」
「賢者の記録です」
オレが言うと、彼の手が止まった。
来た。
反応まで予想するようになった自分が、少し可笑しかった。
「職業を変えるおつもりで?」
「できるか、調べたいんです」
「なるほど。賢者ともなれば、食いっぱぐれなさそうですな」
それは魅力的な言い方だった。
食いっぱぐれない。
強い、とか、偉い、とかより、いま持っている金袋の底へよく響いた。
イェナが、馬の水桶を替えながら言った。
「ここの前の先生、かなり借金してたよ」
「賢者が?」
「皆そう呼んでた。実際の職業は知らないけど、書物を買うと止まらなくなる人だった」
セラが深く頷いた。
「収入と支出は別ね」
「希望を、そんなに手早く帳簿へ戻さないでください」
ゴルドは口いっぱいのパンを飲み込んだ。
「酒じゃなくて本なら、立派なもんだ」
「返す側の感想じゃないわ」
セラの返事に、オスムまで背筋を伸ばした。
誰にでも、多少の心当たりはあるらしい。
*
三日目、雨が降った。
土を叩くほどではない。外套の表を濡らし、気づかないうちに袖口へ入り込む雨だった。
オレは頭巾を深く被りすぎて、前の車輪へぶつかりかけた。
イェナが呼ぶ。
「車の横、近すぎる。滑ったら車輪の下だよ」
慌てて一歩離れた。
すると今度は道端の草で靴が滑った。
アルトが腕を掴んだ。
「真ん中。轍と草の間を」
「安全な場所、細くないですか」
「歩くときは、だいたいそうです」
彼の靴は、落ち着いた場所へ一足ずつ置かれていた。臆病という言葉で片付けていた慎重さが、雨の日には目で見えた。
ゴルドは逆に、大股で歩いているように見えた。
しかし荷車が傾くと、必ず荷台側へ寄る。老いた人の歩き方にしては大雑把で、戦う人の歩き方にしては妙に他人へ合わせていた。
雨の中では、誰も長く喋らなかった。
オレは足元を見ながら、時々、前と後ろを確かめた。
それだけで忙しい。
賢者のことを考える余裕もないまま歩いた時間を、無駄だったとは思えなかった。
*
宿へ着く少し前、アルトが手を上げて短い休みを頼んだ。
怪我ではなかった。靴の中へ、小石が入ったという。
「もうすぐなのに?」
オレが言うと、彼は道端の石へ腰を下ろした。
「もうすぐの間に、皮が剥けるので」
靴を脱ぎ、爪ほどの石を振り落とす。
オレの靴の中も、朝から何かが当たっていた。痛いと言うほどではなく、我慢できる程度だったので、そのまま歩いていた。
一緒に脱いでみると、靴下の端が折り重なっていた。
踵の皮が、赤くなっている。
アルトはそれを見て、手拭いを出しかけた。
「大丈夫です。替え、あります」
オレが袋を開くと、彼は手を止めた。
自分で用意した布を使い、湿った方を外へ吊るす。
靴を履き直しただけで、次の一歩が違った。
「我慢の修練を、無駄に積んでました」
「僕も、よくします」
アルトは笑い、手拭いを畳み直した。
兄から来た手紙の話を聞こうかと思ったが、やめた。話したいときに聞けばよい。今は同じ石に座り、靴を履き直しただけで十分だった。
イェナが前から呼んだ。
「戻れそう?」
オレたちは頷いて立ち上がった。
荷車のそばへ戻ると、ゴルドが平気な顔で片足を上げていた。
靴の中から、小石が二つ落ちた。
「人の修練を見て、学んでますね」
「無駄にはせん」
それなら、無駄な我慢も少しは役に立ったらしい。
*
その夜の宿には、広い炉があった。
火の正面は、すでに別の旅人で埋まっている。オレたちは壁際へ場所をもらい、順番に外套を干した。
セラは自分の帳簿を開いて、紙が湿っていないか確かめていた。
ゴルドは靴を脱いだ。
近くの客が、すっと顔を上げた。
「乾かす場所を選んでください」
「火があるだろう」
「鼻もあるんです」
イェナが笑い、乾燥棚の下段を指した。
オレはその横に、折り畳んだ耳飾りの箱を置いた。
隣の卓にいた若い男が、それを見て声をかけてきた。
「芸をする人?」
「少しだけ」
「うちの席でも、何かやってよ。酒を一杯出すから」
身体はすぐ、笑顔を用意した。
夕方の酒場なら、自然な誘いだった。
でも明日は早い。ここにいるのは店の客ではなく、顔を知らない旅人で、オレは仲間と食事をするところだった。
「今日は仕事が終わったので。また、時間の合うときに」
男は不満そうに口を曲げた。
「遊び人なのに、遊ばないんだ」
上手い切り返しが、二つほど浮かんだ。
どちらも、相手を怒らせればさらに続く種類の言葉だった。
「明日も歩くので」
それだけ言った。
男は肩をすくめ、仲間の話へ戻った。
何も勝っていない。
それでも、自分の席へ戻れた。
アルトが、オレの分の碗へ蓋をかぶせてくれていた。湯気が逃げすぎないよう、皿を一枚乗せただけの蓋だった。
オレはその皿を外した。
「ありがとうございます」
「まだ熱いと思います」
「熱い方がいいです」
セラだけが首を振った。
同じ席にいても、その点だけは合わなかった。
*
食後、イェナが手綱の金具を磨きに来た。
小さな鈴が三つ、革帯へついていた。
乾いた布で拭くと、一つだけ高い音が鳴る。
「馬につけるんですか」
「霧の日に、後ろの車が位置を知るため。明日のあたりは木が深いから」
「声じゃ駄目なんです?」
「ずっと喋ってる御者は、馬にも嫌われるよ」
ゴルドが、なぜか自分の杯を見た。
イェナは爺さんを見ずに続けた。
「でも、鳴らしっぱなしにはしない。嫌がるものも、寄ってくるものもいる」
「魔物ですか」
「継ぎ場の前後で、鳴き真似する獣が出ることがある。人の言葉を喋るわけじゃないけど、笛や鈴に似た声を返す。前の便で、組合の見回りが札を立ててた」
ゴルドが顔を上げた。
「返り鳴きか」
「この辺じゃ、そう呼んでるね」
知っているらしい。
爺さんは鈴を一つ鳴らし、その余韻を聞いた。
「音のした方へ走る。見通しの悪い道だと、馬が驚く」
「倒せるんですか」
「一匹ならな。だが、荷車の下へ潜られたら、殴る相手より先に車軸を壊す」
それは困る。
オレは教わったことを帳面へ書いた。名前だけではなく、鈴をむやみに鳴らさない、と。
イェナは革帯を丸め、袋へしまった。
「明日は継ぎ場で泊まるから、出る前にまた道の具合を聞こう。見張りが止めるなら、宿へ戻る」
セラが頷いた。
危ない話を聞いても、酒場の武勇伝のようには空気が弾まなかった。
アルトは、荷台に積む鍋の蓋へ布を巻き始めた。
「それも、鳴るんですか」
「転がったら、かなり」
オレも自分の杯を袋から出した。
雨で冷えた指を動かし、布の端を結ぶ。
知っていることが一つ増えると、荷造りも一箇所変わった。
*
寝る前に、帳面の別の頁を開いた。
白い札。机。左の脇腹。
昼に浮かんだものを、一つずつ書く。
文字にすると、いかにも繋がりそうだった。怖い目に遭った誰かが、机の向こうにいた。そういう筋を作ろうと思えば、作れる。
オレは線で結ばなかった。
机の白と、四角い光の白は、同じだろうか。
似た色をしているだけで、違う場所かもしれない。そもそも、実際にあった場所なのか。
横の寝床で、ゴルドが寝返りを打った。
「消せるか」
灯りのことだった。
「はい」
帳面を閉じる前に、もう一行だけ足した。
人に紙を渡すとき、両手の角度を揃える。
今の身体で実際にしたことなら、その部分だけは間違いがない。
火を落とす。
暗がりの向こうで、どこかの荷車の鈴が一度鳴った。
今夜は、返事がなかった。