第37話 留守にする練習
第37話 留守にする練習
最初に決まったのは、賢者への道ではなく、玉葱の置き場所だった。
「下の箱だと、腰を曲げるから遅い」
店主が言った。
オレは抱えていた木箱を、台の横へ下ろした。
「今までは、下でしたよね」
「今までは、お前が取ってた」
言われて初めて、棚の低さを見た。
『陽気な冒険者』の厨房は広くない。大きな男が二人入ると、それだけで通路が塞がる。夕方の仕込みを手伝うドランが、試しに玉葱へ手を伸ばし、鍋の柄へ肘をぶつけた。
「痛えな」
「そこに鍋があります」
「分かった。今、肘で」
酒を飲む席から、三歩しか離れていない。
その三歩の間に、知らない物がずいぶんあったらしい。
出発まで、三週間。
店主は朝の仕込みを近所の女に頼み、夜の忙しい時間だけ、ドランにも手を借りることにした。どちらも給金の出る手伝いで、オレの留守を好意だけで埋める話にはしなかった。
ただ、手伝いが来ても、何をどこへ置くかまでは勝手に伝わらない。
その最初が、玉葱だった。
*
仕事を書き出してみると、紙一枚では足りなかった。
朝は窓を開ける。床を掃く。布巾を分ける。水差しを見る。パンの数を確かめる。
客へ笑う。
そこまで書いて、ペンが止まった。
笑う、と書けば笑えるのか。
ドランの前へ置いてみた。
彼は紙を見て、こちらへ歯を見せた。
「怖いです」
「注文が多いな」
「いま来た人の顔を見てからでいいんです。疲れてそうなら、先に水を置いて」
「喋らなくてもいいのか」
「喋ってほしい人ばかりじゃないので」
言いながら、オレ自身が少し驚いた。
初めから知っていたように口が動いた。それでも、いつもできていたわけではない。笑いの数を増やそうとして、相手の顔を置き去りにした日がある。
身体が知っていることと、自分で選べることは、まだ少しずれていた。
ドランは水差しを取り、空の卓へ杯を置いた。
最後の一滴が、木の上に落ちた。
「布を、こっちへ」
オレはその手元へ布巾を寄せた。
翌日には、玉葱と布巾の場所が変わっていた。
店が自分の不在に合わせて動き始めるのは、ありがたくて、少し寂しかった。
*
隊商の荷主は、髭のない小柄な男だった。
名前はオスム。布地と金物をカルダスへ運ぶという。灰鷲ギルドの面談室へ来たとき、帽子を三度握り直していた。
護衛へ大声で命令する人物を勝手に想像していたので、少し拍子抜けした。
「荷車は二台。御者はそれぞれ一人。私も同行します」
オスムが地図へ指を置く。
カルダスまでは六日の予定。古竜のいる峠とは違う街道で、宿場をつないで行く。前の隊商で通った山道を、近道としてもう一度使う話ではなかった。
「途中で一泊、屋根だけの継ぎ場があります。そこ以外は宿です」
セラが尋ねた。
「宿と食事は、どちら持ちですか」
「同行中は、こちらで。カルダスで荷下ろしが終わるまで」
「悪天候や通行止めで延びた場合も?」
「同じです。ただ、現地で皆さんが滞在する分は――」
「別。そこは分かっています」
報酬は百六十ピィ。
前の峠越えに比べると小さいが、日数と危険を同じ物差しで見てはいけない。オレは先に高い報酬を見て喜びそうになる癖を、膝の上で押さえた。
「危険があれば、荷より人を先に下げます」
アルトが言った。
声は大きくなかった。でも、途中で消えなかった。
オスムはしばらく地図を見たあと、頷いた。
「荷の回収を勝手に約束しない、ということですか」
「はい。取りに戻れるかも、その時の状況で」
必要な条件は、口にすると少し怖い。
荷主がその場で立ち上がるかもしれないからだ。
しかしオスムは立ち上がらず、地図の端へその条件を書いた。
「私は、戻れない人へ請求するのが一番嫌いです」
セラが目を上げた。
少しだけ、話の合う顔になった。
*
契約の前に、四人で宿へ戻った。
セラが旅の見積もりを並べる。
オスムから受け取る前払い四十は、報酬百六十の一部。百六十に四十を足すわけではない。帰りの仕事は未定で、見つからなくても帰れる金を、別に持っておく必要がある。
オレは自分の袋を開いた。
酒場で働いた給金と、依頼で受け取った取り分。その間に使った食事、靴の手入れ、紙、診断。増えたり減ったりした結果が、掌に乗る硬貨になっていた。
「カルダスでの調べ物は、アタシのお金から出します」
「最初から、そのつもりよ」
「同行してもらうので、皆さんの分まで――」
「旅の依頼は、四人で受ける仕事。あんたの閲覧は、あんたの用事。混ぜなくていい」
セラは、別々の紙を指で離した。
「私は本部で、宵市の緊急支出の扱いと広域の精算を確認したい。こちらで終わっている支払いを、もう一度請求する話じゃないわ。次に使う手順を知りたいの」
アルトは、兄から届いた短い返事を卓へ置いた。
オレには読ませず、封筒の裏だけを見せる。
「兄が、包丁の柄に使う金具を頼みたいそうです。カルダスに行くなら、ですが」
「仲直り、したんですか」
「頼み事の前に、『どうせぶらぶらするなら』って書いてありました」
「しましたね、とは言いにくい」
「でも、寸法も書いてくれました」
アルトは封筒を丁寧に戻した。
ゴルドは教科書を叩いた。
「俺は、これの直しを見たい。古い版だと、説明の順が悪いと言われたことがある」
「読めない原因が、本に?」
「全部とは言っとらん」
それぞれに行く理由があった。
オレの願いが三人を引っ張っていく、と思う方が、物語としては格好よかったかもしれない。
実際には、剥げた教科書と、包丁の金具と、経費の書式が一緒に歩く。
その方が、断られないことより安心できた。
*
面談の翌日、イェナに呼ばれて荷車を見に行った。
出発前に乗り降りを確かめておきたいという。
荷台の横板に足をかけると、彼女はすぐ首を振った。
「そこは荷が寄りかかる板。踏むのは、下の鉄の輪」
輪は思ったより低かった。そこへ足を入れ、両手で縁を持つ。
身体を持ち上げたところで、鞄が顔の横へ振れた。
視界が革になった。
「荷物は先に渡す。自分は後」
「先に言ってもらえると」
「今、先に確かめてるんだよ」
その通りだった。
オレは一度降りた。地面へ飛び下りようとすると、また止められた。
「同じ輪を使って。足首をひねると、六日間ずっと痛いから」
ゴルドは地面から荷台へ軽々と上がった。
イェナは、それについては何も言わなかった。
できる人と、できない人で、手順が違うらしい。
オレは三度、上り下りを繰り返した。
ようやく鞄と自分を別々に運べるようになると、今度は座る位置を教わる。
「脚を外へぶらぶらさせない。眠るなら、護衛を交替してから。車輪が石へ乗ったとき、身体をこっちへ投げない」
あっちも、こっちも、いけない所だった。
座っているだけの仕事だと思っていた過去の四人目が、急に遠い人になった。
「あの人、こういうのも上手かったんですかね」
アルトに尋ねると、彼は首を傾げた。
「少なくとも、乗ったところは見てないです。気づいたら、座っていて」
「そこだけ聞くと、確かにすごい人ですね」
正体の分からない人の能力が、少し妙な方向へ増えた。
帰りは荷台に座らず歩いた。習ったばかりのことを何度も試したせいで、腕が重かった。
その夜の仕事の紙へ、荷を持ったまま椅子へ上がらない、と一行足した。
ドランがそれを読んで、無言で自分の足元を見た。
覚えたことは、旅へ出る前にも使い道があった。
*
出発までの日々は、急に速くなった。
午前は近場の依頼。戻れば靴を乾かし、荷を解き、夕方には店へ入る。翌朝の短い時間に教科書を読む。
水は動かない。
手品の銅貨は落ちる。
靴の中敷きだけは、替えたその日から具合がよくなった。
ある昼、オレは客の前で銅貨を見失ったふりをした。右の掌には、確かに残っている。
ところが取り出すとき、勢いをつけすぎた。
銅貨はゴルドの杯へ落ちた。
「増えたな」
「飲まないでください!」
セラが杯を取り上げ、アルトが布を持ってくる。客が笑う間、店主は黙って小皿を置いた。
銅貨を置く皿だった。
芸の道具は、食べ物のそばで使わない。
その日の帳面には、そう書いた。
別の日には、ニノが王様の声を聞かせに来た。
途中で一箇所、声が鶏になった。
オレは吹き出し、少年は頬を膨らませた。
「そこの台詞だけ、混ざるんだ」
「王様も、朝には仕事があるんだね」
ニノもとうとう笑った。
旅の話をすると、次に一座が来たら伝えておく、と言った。いつ戻るのか尋ねられたので、出発から三週間前後を見込むが、便で知らせる、と答えた。
はっきりしない予定を伝えることにも、練習が要った。
行きたいと言うより、帰りを待つ人へ説明する方が難しかった。
*
マルヴァは新しい手品を見て、左の手首を押さえた。
「隠す方だけ、忙しそうだ」
「仕事してますので」
「見せる手にも、仕事をさせな」
試すと、銅貨を入れたふりをする手が少し自然になった。
すぐに上手くなったのではない。どこが不自然だったかを、一つ知っただけだった。
彼女は次に、旅の外套の留め具を確かめた。
「これで歩いてみたかい」
「鏡の前では」
「鏡は坂を登らないよ」
結局、その格好で水桶を運ぶことになった。
胸の前を留めた紐が、腕を伸ばすたび喉へ寄る。腰の袋はしゃがむと腿に当たった。兎耳の上から被った頭巾は、何とも言えない形になる。
「怪しいキノコみたいじゃないですか」
「食べられないのは見れば分かる」
「褒めてます?」
「危なそうだとは言ってる」
耳飾りは折れない箱へ入れ、道では頭巾を使うことにした。店で着ている衣装の上へ、動きを妨げない腰布と外套を重ねる。
可愛く見せるための紐と、荷物を留めるための紐は、同じところへ結ぶと喧嘩をする。
その事実を、オレは一日かけて覚えた。
「何か、持っていった方がいい物はありますか」
尋ねると、マルヴァは少し考えた。
「聞いたことを、すぐ答えにしない頭」
「荷造りが難しい物ですね」
「置き忘れる方が簡単だからね」
最後に彼女は、針と糸の小さな包みをくれた。
そちらは、すぐ鞄に入れられた。
*
出発前の晩、ドランは三つの杯を一度に運んだ。
一つ、卓へ置く。
もう一つ。
三つ目は、危うく自分の腹へ注ぎかけた。
オレの手が伸びたが、先に店主が受け止めた。
「二つで運べ」
「ミアは三つだろ」
「お前は二つだ」
そこで話が終わった。
人が代われば、同じ仕事のやり方も変わる。自分の手順を全部渡して、同じ人を一人作ろうとしていたのかもしれない。
オレは書きかけの紙から、『三つずつ』を消した。
閉店後、店主に戻りの連絡先をもう一度伝えた。カルダスのギルド留めで便を受け取る。予定が延びれば、便の出る日に知らせる。
部屋の家賃も、留守の間の分を払った。
使わない部屋に払う金は惜しい。しかし、帰ってきたときに寝床があることへ払う金でもある。
「鍵をなくすなよ」
店主が言った。
オレは袋の内側へ手を入れ、結んだ鍵を触った。
「はい」
「鍋を運ぶとき、ドランが袖を引っかける。紙に書いとけ」
「本人にも言いました?」
「言った」
「じゃ、紙にも言わせましょう」
店主が少し笑った。
オレはその一行を足した。
出発の挨拶より、ずっとこの店らしい最後の仕事だった。
*
朝、門の外には荷車が二台並んでいた。
前の車の御者は女だった。肘から先が日に焼け、細い革紐で髪を束ねている。
「イェナ。手綱を持ってる間は、急に肩を叩かないでね」
初対面の挨拶と注意事項が、一息だった。
オレも名乗った。
「ミアです。荷台の上では、手品をしません」
「何をしでかしたの」
「まだ、そこでは何も」
イェナは笑い、乗り降りに使う場所を教えてくれた。
護衛は基本的に歩く。道の状態がよい区間だけ、交替で荷台の端へ座れる。四人全員が座ってのんびり進む旅ではなかった。
オスムが人数を確かめた。
セラは契約の写しをしまう。アルトは鍋の紐を引き、ゴルドは新しい留め具を一度で外してみせた。
「練習したんですか」
「修練の成果だ」
「魔法の方にも、それを」
爺さんはもう閉じていた。
門の方を振り返ると、店の屋根は見えなかった。
それでも、どの道を曲がれば帰れるかは分かる。
オレは鞄を背負い直した。
地図の中の名前だったカルダスへ、車輪が動き始めた。