第36話 お姉さんは、何になるの
第36話 お姉さんは、何になるの
芋の最後の一かけを口へ運んだとき、ピトが椅子を寄せてきた。
「ねえ、ほかにもできる?」
「食べることなら、まだ少し」
「耳じゃないやつ」
芸の催促だった。
集会所の片側では、大人たちが明日の畑仕事を相談している。寝床を敷くまでには時間があった。オレはパン屑を払ってから、両手を卓の上へ置いた。
「銅貨、持ってる?」
ピトは首を振る。
ゴルドが財布へ手をかけた。
留め具を外す。もう一つ外す。途中で紐を逆へ引いたらしく、結び目が締まった。
「少し待て」
「魔法使いが、お金を出す手品です」
子供が三人、寄ってきた。
「出ないよ」
「ここからが難しいところです」
「出してやるから、実況するな」
マルヴァの縫った留め具は、作った人の不在中も立派に働いていた。
やっと卓へ置かれた一ピィを、オレは両手で包んだ。右から左へ移したように見せて、右の掌に残す。酒場で練習している、いちばん簡単な仕草だ。
左の拳を開く。
何もない。
子供たちが息を呑んだ。
「どこへ行ったでしょう」
「右」
ピトが言った。
早い。
「決める前に、少し悩んでもらえます?」
「右にある」
正確だった。
肩越しに見ていた子供には、握った銅貨が丸見えだったらしい。接客の手は覚えていても、手品の手はまだ初心者だった。
オレは右手を開いた。
全員が笑った。
「じゃあ、次は見ている場所を変えてみようか」
負けを認めた方が、続きは作りやすかった。
*
今度は子供の一人にやってもらった。
見ている方は、同じ側へ座る。演じる方は、右手を隠そうとして身体ごと横へ向く。
ピトが口を開きかけたので、オレは指を一本立てた。
「見えたときは、終わってから教えて。途中で言うと、練習が最後まで行かないから」
ピトは唇を尖らせた。
手品をしている女の子は、銅貨を落とした。
床の上で、ちん、と鳴る。
ゴルドが素早く足で押さえた。
「消えた」
「増やす方もできる?」
ピトの問いに、セラが帳簿から顔を上げた。
「できたら、苦労してないわね」
「夢のない回答はお控えください」
「嘘のある回答より安いわ」
村長が笑い、子供たちもつられて笑った。
オレは銅貨を拾い、女の子へ返した。
次は両手をゆっくり動かす。オレも横で同じ動作をした。やり方を知ると、見る方は一層厳しくなるらしい。子供たちは眉を寄せ、指の曲がり方まで見ていた。
その真剣さが、妙に嬉しかった。
誰も、自分が笑った回数など覚えていない。
オレも、数えていなかった。
やがて女の子が、初めて銅貨を落とさずに終えた。
ピトは少し待ち、手を叩いた。
笑いとは違う軽さが、胸のあたりに残った。
何に反応したのかは分からない。上手く教えられたと思って安心しただけかもしれない。すぐに名前をつけず、明日の帳面へ書いておこうとだけ決めた。
*
寝床を敷くため、卓が壁へ寄せられた。
子供たちは家へ戻っていく。ピトだけが戸口に残った。
母親に呼ばれるたび、一歩ずつ外へ出る。急いでいないふりをする仕事でもあるようだった。
「お姉さん、兵隊じゃないんだよね」
「違うよ」
「先生でもない」
「うん。酒場で働いて、こういうお届けもする」
「じゃ、何になるの」
オレは畳みかけた毛布を持ったまま、止まった。
なる。
いま何か、ではなかった。
「……賢者に、なりたいんだ」
言ってから、子供への答えとしては説明が足りないと気づいた。
ピトは目を丸くした。
「なれるの?」
「まだ分からない」
「どうやって?」
「それも、調べてる」
少年はしばらく考えた。
その間、オレは毛布の角を合わせ直した。格好のつく答えが一つもない。大人が何者になるかを、こんなにまっすぐ尋ねられるとは思わなかった。
「じゃ、ぼくもなる」
胸の奥が、少しだけ跳ねた。
慕われるのは嬉しい。自分の目指す先を、いいものだと思ってもらえるのも嬉しい。
けれど少年は、今の話をどこまで聞いただろう。
「お届けができたら、なれる?」
「ううん。そこは、分からないんだ」
「お姉さんは、お届けしてるよ」
「してるね。でも、これをしたら必ずなれる、っていう仕事じゃないの。今日、薬がここにいるから、持ってきたんだよ」
ピトは鼻を少し皺にした。
分かりにくい話だ。話す側も、簡単にできない。
「賢者になったら、何ができるの」
「魔法を使ったり、人を治したり。たぶん、今よりできることが増える」
「豚、戻せる?」
アルトが、毛布を落とした。
笑いを堪えていたらしい。
「豚は、アルトさんの方が詳しいと思う」
「じゃ、あっちになる」
「えっ」
勇者の方へ、目標が移った。
オレはつい笑ってしまった。ピトは真面目な顔でアルトを見上げている。勇者という言葉より、今日見た手つきの方が大きいらしかった。
母親がとうとう迎えに来た。
少年は戸をくぐる直前に振り返った。
「明日、袋運ぶ」
「じゃ、今度は一緒にね」
約束をすると、やっと帰っていった。
*
外へ出ると、土が昼の熱を失っていた。
集会所の窓から細長い灯りが漏れ、低い草の先を照らす。少し離れた祠では、古い木札が風にぶつかり合っていた。
『どうか、私たちに効く手を』。
前に見た札は、同じ場所にあった。端が少し欠けている。
効く、という言葉から、マルヴァの指を連想した。針を持つ指。水差しを受け取る手。強い人はもっと、どこでも強い顔をしているのだと思っていた。
「寝んのか」
ゴルドが戸口から出てきた。
「少しだけ」
「足、痛むか」
「それは、かなり」
爺さんは段差へ腰を下ろし、オレの隣を空けた。
夜空には、見つけられそうで見つからない星の並びがある。三つ並んだ光の左に、もう一つあるはずだと感じる。目を凝らしているうちに、どの三つを見ていたのか分からなくなった。
「星って、動きますよね」
「動くな」
「並びまで、変わります?」
「酔ってると」
「聞く相手を間違えました」
ゴルドは笑い、今日は飲んでいない、と付け足した。
村に余裕がないことを知っているからか。単に酒が出なかったからか。本人は何も言わず、掌で膝の埃を払った。
「なりたい、と言えるようになったな」
空を見たまま、爺さんが言う。
「前にも言ってましたよ」
「俺らにはな」
「子供に言う方が、難しかったです」
「何でだ」
「本気にするから」
口にすると、少し違う気がした。
仲間が本気にしていないわけではない。笑いながら聞くことと、軽く聞くことは違う。その区別が、オレにも少しずつついてきていた。
「……まだ分からないところまで、知ってるように聞かれたら、困るんです」
ゴルドは鼻の下を擦った。
「分からんと言ったろ」
「言いましたけど」
「なら、明日も聞かれたら、また言え」
「面倒ですね」
「人に物を教えるのは、面倒だ」
その口ぶりには、珍しく誇張がなかった。
*
爺さんは、小石を一つ拾った。
指の間へ隠し、反対の手を開く。何もない。
さっきのオレより上手かった。
「できるんですか」
「さっき見た」
「それ、一番嫌な答えです」
「こういう手は、昔から使う。どっちへ拳が来るか、相手に間違えさせる」
今度はゆっくりやってくれた。
掌に隠す瞬間ではなく、石を受け取るはずの手を見る。その視線につられて、こちらの目も動く。
「こっちへ入った、と自分でも一度信じるんだ」
「本当に入れちゃいません?」
「入れたら、ただ渡しただけだ」
教わってやってみた。
落とした。
小石が階段を跳ね、闇へ消える。
「消えました」
「明日の朝、出てくるな」
オレは笑った。
ゴルドはもう一つ拾い、今度は手渡してくれた。
指を閉じる。
暗い部屋。掌の中で、硬いものを何度も押す。親指の下で小さな突起が沈む。画面の端に並ぶ人影が、左から右へ動いた。
誰かが勝手に踊っている。
今じゃない。そこで、それをするな。
喉の奥で、叱るような声が形になりかけた。
オレは息を吐いた。
小石を、握ったままだった。
「どうした」
「……今、手の形が、何かに似てて」
「昔、やったのか」
「かもしれません。でも、これじゃない気もします」
誰が持っていた手なのかも、分からない。
ゴルドは答えを埋めなかった。
しばらくして、窓の中からセラが呼んだ。
「明日は朝から戻るのよ。夜更かしの分、荷物が軽くなることはないから」
「ただいま」
爺さんが立ち上がる。
オレは小石を元の草むらへ置いた。何かを探すたび、何でも持ち帰るわけにはいかない。
手の感触だけ、帳面へ書くことにした。
*
朝、ピトは袋を二人で運んだ。
オレが片側を持ち、少年が反対側を持つ。中には集会所で使った布が入っている。薬の棚には近づかなかった。
豚小屋の前で、少年の足が少し速くなる。
「今日は、走らない」
「走ってない」
「じゃ、この速い歩きを、もう少し遅くしよう」
ピトは不満そうにしながら、速度を落とした。
洗い場まで、何も起きなかった。
何も起きずに終わる仕事は、終わったことが分かりにくい。オレは袋を置き、空いた手を少年へ見せた。
「お届け、できたね」
少年は両手を見下ろした。
それから、顔を上げて笑った。
朝の光が、欠けた前歯に引っかかっていた。
集会所へ戻ると、セラが薬箱を確かめていた。昨夜決めた場所に鍵がある。ハナは紙を見ながら、今後減った分を記す欄へ日付を書いた。
「困ったときの連絡は、便の人へ。急ぐときは、次の配達まで待たないで」
ハナが頷いた。
村長は報酬の袋を差し出した。セラは中身を数え、受け取りの控えを一枚残した。
ゴルドは、そのやり取りを少し離れて見ていた。
「増えたか」
「三十二枚です」
「昨日、一枚貸したろ」
「返しましたよ」
爺さんは財布の外側を探り、留め具に挟まっていた銅貨を見つけた。
「出た」
ピトが手を叩いた。
最後に成功した芸は、やはりお金を出す手品だった。
*
帰り道では、肩紐があまり痛くなかった。
荷が減ったからだ。
ここで成長したせいだと思い込まない程度には、オレも自分の都合のよさを知っている。
アルトは村でもらった干し豆を背負っていた。報酬とは別に、四人への土産だという。セラが受け取るか迷ったとき、ハナは眉を上げた。
『売る分じゃないよ。うちで食べる分を、分けるの』
結局、受け取った。
道端で短く休み、四人で弁当の残りを分けた。セラは依頼の支出を確かめていた。
「往復の携行食と運搬袋の使用料、合わせて四ピィ。三十二から引いて二十八。一人七ね」
「黒字ですか」
「ええ」
前に村へ行った夜の帳簿が浮かんだ。
薬を使い、治して、未達成の欄へ線を引いた。今回は別の欄になる。
「前の薬代も、返ってきた感じです?」
「今回の仕事のお金よ。昔の持ち出しまで勝手に乗せたら、二度請求になる」
「気持ちの話です」
「気持ちは、別にしておく」
セラは帳簿を閉じた。
閉じる前に、一度だけ村の方を見た。
その顔については、帳面へ書かないでおこうと思った。
*
ハイベルへ着くと、ドリスは受領書を確認した。
薬と布は納品済み。色の希望については注文時の伝達違いで、追加購入なし。滞在中の手当は運搬の報酬と別。セラの短い報告に、受付のペンが迷わず動いた。
オレは隣の机に積まれた便の袋を見た。
カルダス宛て。
ひもで縛られた紙の束に、その字がある。
行こうと思わなければ、読んでも通り過ぎる名前だった。
「前にお聞きした、閲覧室の紹介のことなんですが」
ドリスが顔を上げた。
「日程が決まりました?」
「まだです。決めるために、今度は旅の依頼も見たいです」
口にすると、椅子から立ち上がるような感じがした。
ドリスは掲示板の方を示した。
「便と一緒に出る隊商なら、三週間先の予定が来ています。荷主との面談は、来週です」
セラが、横から日付を確かめた。
アルトは鞄の小さな仕切りを押さえた。兄へ送る手紙が入っている場所だ。
ゴルドは財布の留め具を閉じた。
「六日ほどの道だ。昔は、途中の宿で豆を焦がしとったな」
「町の情報が、まずそれですか」
「腹は毎日減る」
確かに、重要な情報ではあった。
オレは掲示板の前へ立った。
今度は、明日帰れる仕事だけを探してはいなかった。