第17話 遊び人の読み
第十七話 遊び人の読み
竜の顎が、限界まで開かれる。
その刹那、時間の流れがおかしくなった。
舞い上がった砂埃の一粒一粒が、宙で止まって見えた。誰かの叫びが、水の底で聞くように間延びして届く。一瞬というものを、こんなに内側から眺めたのは初めてだった。
喉の奥の橙色の光が、ゆっくりと膨らんでいく。落ちてくる岩を見上げた時のように、目だけが冴えて、身体は置き去りだった。恐怖で真っ白になったはずの頭の隅で、目だけが勝手に働き続けている。竜の顎の開き方。瞳孔の細さ。首の角度。長年――といっても、この身体が積み重ねてきた記憶に過ぎないのだが――酒場のカウンター越しに無数の客の顔を見てきた目が、死の間際まで律儀に、目の前の相手を観察していた。
引き延ばされた時間の中で、峠の全部が見えていた。痺れた拳を握り直そうとしているゴルド。帳簿を落としたまま、口だけが動いているセラ。青ざめて立ち尽くすアルト。遠くで、反転しきれない荷馬車。誰も、間に合わない。オレも、間に合わない。なのに、目だけが動いている。
酔って管を巻く客。理不尽に怒鳴る客。無口なまま、ただグラスを傾け続ける客。オレは、いや、この身体は、そのどれもを見分けてきた。怒っている客と拗ねている客は違う。苛立っている客と疲れている客も違う。表面上の激しさは同じでも、その奥にある温度がまるで違う。
これは恐怖から来る、ただの現実逃避か。死にかけると人は関係のないことを考え出す、という話をどこかで聞いた気がする。いや、逃避じゃない。戦えない身体が生き延びるために発達させてきた、唯一の感覚器官が動いているだけだ。……どっちでもいい。考える時間なんて、あるはずがなかった。実際、考えてなどいなかったのだと思う。思考は問いの形にすらならず、断片のまま、恐怖の裏側で勝手に加速していた。
今、目の前のこいつは。
どれだ。
竜の言葉が、頭の中で勝手に再生される。何百年、同じ言葉を聞かされ続けてきたと思っている――勇者、勇者、勇者。
あの言い方。怒りの熱さより、うんざりした冷たさ。
毎晩、同じ武勇伝を語る常連がいた。細部が毎回違うのに、本人だけが気づかない、あの爺さんだ。あの人の声にも、これと同じ音が混じる夜がある。誰も、ちゃんと聞いてくれない、という音が。
これ、怒ってるんじゃない。
飽き飽きしてるんだ。
酌をしながら、窓の外ばかり見ている客の横顔。注文を取りに行くと「ああ、もういい」と振られる手。卓の上でぬるくなっていくエール。飽きた客は、怒らない。怒る手間すら、かけてくれなくなる。だが、あの竜はまだ怒る素振りをしている。まだ、こちらを見ている。なら、まだ間に合う。
閃きというより、確信に近かった。もっとも、その確信とやらの中身を検分している暇はない。当たっているかどうかは、あとで――あとがあれば――考えればいい。何百年、同じ台詞を聞かされ続けた。何百年、同じ展開を見せられ続けた。それは怒りに満ちた客ではない。怒りすら、とうに擦り切れてしまった客だ。
戦う力は、ない。でも、効く一言くらいなら。
外したら死ぬ。当てても、死ぬかもしれない。分の悪い賭けだ。セラなら絶対に張らない。けれど張らなければ、あの橙色が全部を呑む。それだけは、計算するまでもなく決まっている。だったら。
オレの身体は、勝手に動いていた。
「――待って!」
声が峠に響いた。悲鳴ではなかった。カウンター越しに、暴れかけた客を制止する時の声。営業の声でも素の女声でもない、その中間にある、通る声だった。腹の底から声を出すやり方だけは、この身体が骨まで覚えていた。
竜の顎が、止まった。
完全に止まったわけではない。だが放たれる寸前だった何かが、ほんの一瞬、宙で足踏みをしたように間が空いた。その一瞬の長さを、オレは一生分の密度で味わった。
誰もが凍りついたように、その場で息を止めていた。
ゴルドの目が、信じられないものを見る形に開かれていた。オレを守るために動くべきか、動けば全部が崩れるのか、あの人の場数をもってしても測りかねている。アルトの唇が「ミアさん」の形に動いて、音にならないまま閉じた。
オレは震える足を叱咤して、一歩、前に出た。
一歩。たったそれだけで、世界が変わった。竜との間合いが、目測のきく距離になったのだ。顔に当たる空気の温度が上がる。竜の吐く息の名残が、生温かい風になって頬を撫でていく。前脚の爪の一本が、オレの背丈より高い。その爪の根元の鱗に、古い傷が幾筋も走っているのが、この距離で初めて見えた。誰かが、届いたのだ。少なくとも、傷をつけるところまでは。そして竜は、今もここにいる。
間合い、という言葉の意味が、カウンター越しのそれとはまるで違った。この距離は、竜の首がひと振りすれば終わる距離だ。踏み込んだのではない。竜の間合いの中に、自分から入ったのだ。分かった上でやったのかと訊かれたら、たぶん、頷けない。
「あの……えっと」
声が、みっともないくらい上ずった。だが、口は止まらなかった。
「その台詞、もう、何百回も言ってません?」
竜の金色の瞳が、初めて明確にオレだけを見た。
視線に、重さがあった。見られている、というだけのことが、肩に岩を載せられたように重い。それでも、その重さの質が、さっきまでと違っていた。潰すために見る目ではない。測るために見る目だった。
酒場でもたまにあった。一見の客が、店の格を測るように、こちらの受け答えを試してくる夜が。あの時と同じ背筋の伸ばし方を、オレの身体は勝手にしていた。膝は笑っているのに、背筋だけが、商売用にまっすぐだった。
「勇者、勇者って、名乗られるたびに、同じこと言うの、しんどくないですか。毎回、同じ怒り方するの」
『――羽虫が、何を』
「怒ってるっていうか」オレは続けた。「もう、飽きてますよね、その台詞」
沈黙が落ちた。
峠全体が静止したような沈黙だった。風すら、音を立てるのを躊躇っているようだった。
言ってしまってから、頭の中を、酒場の光景が立て続けに通り過ぎていった。カウンターの木目。拭いても取れない輪染みの痕。同じ話が三周目に入った客のグラスに、注ぎ足すか、水で薄めるか、それとも「今日はもう店じまいです」と切り上げるか――あの一瞬の見極め。間違えれば席が荒れる。当てれば、客は笑って帰る。オレの手は今、エールの代わりに、自分の命を注ぎ足していた。
接客業をやっていると、時々、こういう客に当たる。理不尽に怒鳴り散らしているように見えて、本当は誰かに構ってほしいだけの客。声を荒げれば荒げるほど、逆に孤独が滲み出てしまう、そんな種類の相手だ。竜と人間を同列に語るのは乱暴かもしれない。それでも、この読みだけは、なぜか揺るがなかった。
竜は、しばらく何も言わなかった。その巨大な瞳が、じっとオレを見据えている。値踏みするような、あるいは記憶の奥の何かと照らし合わせているような目だった。峠を渡る風の音だけが、やけにはっきりと耳に届く。誰かの荒い呼吸。馬の低い嘶き。静寂そのものが、次に何が起こるかを固唾を呑んで待っていた。
汗が、背中を一筋、伝い落ちていった。ゆっくりと、腰の帯のあたりまで。その冷たさの道筋を、オレは妙に鮮明に覚えている。人間、極限まで張り詰めると、感覚の帳面が細かくなるらしい。竜の鼻先がわずかに動くたび、空気の圧が変わる。瞬きの音まで聞こえそうな気がした。自分のではない、竜のだ。あの巨大な瞼が下りて、上がる、その微かな風切りの音。
「ミアさん」アルトが、掠れた声で囁いた。「それ、大丈夫なんですか」
「分かりません」オレは正直に答えた。「でも、なんとなく、こいつ、殺す気で怒ってる顔じゃない気がして」
言いながら、自分でもその根拠の薄さに呆れていた。何百人という客の顔を見てきた、といっても、それはこの身体が積み上げてきた記憶であって、オレ自身の経験ではない。借り物の目で読んで、借り物の声で割って入って、賭けているのは正真正銘、自分の命ときている。笑うところだ、たぶん。誰も笑えないだけで。読みが外れていたら、次の瞬間には全員消し炭だ。それでも、今はこの勘に乗るしかなかった。
思えば、ホーンラビットの群れに突っ込んだ時も、根拠なんてなかった。囮くらいはできる、という啖呵だけがあった。あの時と違うのは、相手の大きさと、賭け金の大きさ。それから――逃げなかった理由が、啖呵ではないことだった。
ゴルドが、痺れた拳をさすりながらこちらを見た。その目に驚きの色が浮かんでいる。何か言いかけて、やめたのが分かった。声を出せば、この薄氷のような均衡が割れる。それが分かる程度には、あの人も場数を踏んでいる。
セラは何も言わなかった。ただ、じっと、竜とオレを交互に見つめていた。唇だけが微かに動いている。数字ではない何かを、数え直しているように見えた。
竜の口が、ゆっくりと閉じられた。放たれかけていた何かが、竜自身の喉の奥へと静かに引っ込んでいく。橙色の光が薄れ、峠に張り詰めていた熱が、一段、緩んだ。
地面が揺れた。だがそれは攻撃の前兆ではなく、竜がその巨体を少しだけこちらに近づけて、座り直す動作だった。岩壁が軋み、砂利が細い滝のように斜面を流れ落ちる。ただ座る。それだけの動作が、峠の地形をわずかに変えた。
座った、ということの意味を、オレの中の商売人が素早く算盤を弾いた。立ったままの客は、いつでも帰れる客だ。座った客は、話を聞かせる気のある客だ。もっとも、この客に限っては、帰ってくれた方がありがたいのだが。
『面白いことを言う羽虫だ』
その声から、地の底から響くような怒気の色が、少しだけ薄れていた。代わりに滲んでいたのは、興味と呼んでいいのか、それとも別の何かなのか、判断のつかない色だった。
『名乗りもせぬまま、我に説教を垂れる羽虫は、初めてだ』
「説教のつもりは、ないです」オレはまだ上ずる声のまま言った。「ただ、なんとなく、思ったことを言っただけで」
『なんとなく、か』
竜が、鼻先をわずかにこちらへ寄せた。息が、オレの全身を包む。熱くはなかった。生き物の息の温度だった。さっきまで消し炭の予告だったものが、今はただ、途方もなく大きな生き物の呼吸として、髪を揺らしている。
なんとなく、で済ませていい相手ではないことくらい、分かっていた。でも、本当のことだった。読みの根拠を並べ立てれば、それは説教になる。営業になる。この手の客に一番効かないのが、そのふたつだ。だから、なんとなく。それでいい。それしか、ない。
心臓はまだ激しく鳴り続けていた。当たったのか、外れたのか、分からない。ただ確かなのは、あの顎がまだ開かれていない、ということだけだった。
セラが、こちらへそっと囁いた。
「ミア、今の、よくやったわ。でも、まだ油断できない」
「分かってます」
オレはまだ覚束ない足に力を込めて、竜の視線をまっすぐに受け止め続けた。
金色の瞳の、縦に裂けた瞳孔が、ほんのわずかに開いていた。獲物を見る細さから、相手を見る太さへ。その変化が何を意味するのか、オレはまだ知らない。ただ、次に竜が吐いた息は、さっきよりも少しだけ、温度が低かった。