第16話 全滅寸前
第十六話 全滅寸前
その姿が完全に現れた瞬間、オレは自分の呼吸の仕方を忘れた。
大きい、という言葉が意味を失っていた。『陽気な冒険者』の建物なら、丸ごと呑まれる。ギルドの石造りの本棟を二つ積み上げても、あの肩には届かないだろう。目の前の存在を測ろうとして、頭の中の物差しが片っ端から折れていく。大きさというのは、ある一線を越えると、もう大きさとして感じられなくなるものらしい。そこにあるのは崖であり、天候であり、地形だった。生き物の形をした、峠そのもの。
影が、先に来た。竜が峠道の先に立った瞬間、オレたちのいる場所まで、まとめてその影に呑まれたのだ。昼の峠が、一段暗くなる。畳まれた翼が岩壁のように盛り上がり、太い尾の先が斜面を撫でるだけで、砕けた石が雨のように転がり落ちてきた。そういえば、と場違いなことを考える。鳥の声は、とうの昔に消えていた。峠に入ってから、ずっと。あれは、こういうことだったのだ。
鱗は灰色がかった黒。ザックの言っていた「漆黒」でも、ドランの言っていた「青みがかった灰色」でもない。どちらでもあり、どちらでもない、光の加減で色を変える深い色をしていた。全員が間違えていたのか、それとも、見るたびに違うのか。……考えても、答えは出ない。全長は目測すら難しい。ただ、それが動くたびに大地そのものが揺れているような錯覚があった。一歩、また一歩と峠道を踏みしめるたび、地面を伝った振動が足の裏から膝へ、膝から胃の腑へと昇ってくる。荷馬車の荷台が、かたかたと小刻みに鳴り続けていた。
風が、生温かい。
竜のいる方角から流れてくる空気だけが、明らかに温度を持っていた。竈の前に立った時に顔を炙る、あの熱の遠い親戚のようなものが、峠の冷たい風に混じって届いてくる。匂いもした。古い石の匂いと、焼けた鉄に似た匂い。その奥に、獣とも違う、もっと乾いた――時間そのものが焦げたような匂いが横たわっていた。
二つの瞳が、こちらを見据えた。金色に近い、縦に長い瞳孔。その目に見据えられただけで、足の裏から力が抜けていく。生き物として格が違うという感覚が、理屈より先に身体へ叩き込まれた。逃げる、戦う――そのどちらの選択肢も、頭に浮かぶ前に押し潰されていく。
『――退がれ』
声というより、空気の震えそのものだった。地の底から響いてくるような、重く低い音。腹の中身を直接掴んで揺さぶられるような声だった。
『我が縄張りに、また羽虫が迷い込んできたか』
言葉が、皮膚に当たる。声というものが空気の揺れなのだと、オレは生まれて初めて、知識ではなく身体で理解した。胸の骨が共鳴して、心臓の拍とは別の拍を刻む。歯の根が合わない、というのとも違う。身体の輪郭そのものを、竜の声の形に、外から揉まれている感じだった。
馬たちが完全に恐慌状態に陥っていた。御者たちが必死に手綱を抑えているが、暴れる力に抗いきれない。荷馬車の一台が大きく傾ぎ、積み荷の樽がひとつ、鈍い音を立てて転がり落ちた。誰も拾わない。拾うという発想そのものが、この場から消えていた。
「隊商を先に!」セラが叫んだ。上ずりかけた声を、喉の奥で無理やり平らに均しているのが分かった。「御者さん、荷物は捨てていい、馬車ごと引き返して!」
ドーマスと御者たちが青ざめた顔で頷き、荷馬車を反転させ始めた。動きは遅い。竜がその気になれば、一瞬で追いつける距離だった。追わない、というだけの話だ。逃げる鼠を、猫があえて見送る時の目に似ていた。
ゴルドが前に出た。拳を構える。その背中には、これまで見たことのない硬さがあった。
「嬢ちゃんたちは、下がってろ」
「ゴルドさん!」
「下がれ、と言った」
短く、有無を言わせない声だった。オレは後ずさりながらも、その背中から目を離せなかった。
ゴルドが地を蹴った。踏み込みの速さは、これまでの依頼で見せてきたどの動きよりも鋭い。拳が、竜の前脚――正確にはその表面の鱗の一枚に、まっすぐ叩き込まれる。
鈍い音がした。石を殴ったような、いや、それよりもっと硬い何かを殴ったような音。だが竜の身体は微動だにしなかった。鱗の一枚さえ揺らがない。
ゴルドの拳が、逆に痺れて固まっていた。指が、開いたまま戻らない。あの拳だ。灰狼の群れを一撃で黙らせ、オレが囮で突っ込んだ時には誰より早く割り込んできた、強い一発ではなく効く一発だけを選んで打つ、あの拳。それが、幼子の悪戯のように弾き返されていた。本人が、一番驚いた顔をしていた。痺れた拳を見下ろすゴルドの顔に、驚きとは違う何かがよぎった。まるで、これと同じものを前にした誰かの話を、思い出しているような。
「こいつは……」
『小さな拳だ。悪くはない。だが、蚊が刺した程度にもならぬ』
竜の声には怒りよりも、むしろ退屈そうな響きがあった。その退屈さこそが、一番恐ろしかった。手加減されている、と分かるからだ。怒鳴られるより、聞き流される方が怖い。酒場で覚えたはずのその理屈を、まさかこんな場所で、こんな規模で思い知らされるとは。
心臓が痛いほど速いのに、呼吸だけが浅く細くなっていた。吸っても吸っても、胸の底まで空気が届かない。指先が冷たい。竜の方からは生温かい風が来ているのに、身体の末端だけが勝手に冬支度を始めている。死ぬかもしれない、という言葉を、頭はまだ発音していなかった。だが身体の方は、とっくにその前提で動き始めていた。
セラが、指を折って何かを数えようとしていた。逃走経路、時間、生存確率。口の中で数字を呟きかけては、途中で見失う。同じ動作を、何度も繰り返す。その指がうまく畳まれていないことに、本人だけが気づいていなかった。
「駄目、算出できない」掠れた声だった。「変数が、大きすぎる……」
手から滑り落ちた帳簿へ伸ばしかけた指が、途中で止まった。拾ったところで、何が変わるわけでもない。
この人が計算を放棄する姿を、オレは初めて見た。損得も確率も、この存在の前ではまるで意味を成さない。帳簿もペンも、竜の巨体の前では、ただの紙切れと木の棒に成り下がっていた。数字で測れないものを前にした時、数字で生きてきた人間は、たぶん誰より裸にされる。
アルトが、剣の柄に手をかけていた。抜けない剣。だが、その手は確かに柄を握っている。震える足が後ろに一歩も下がっていないことに、オレは半拍遅れて気づいた。井戸端で聞いた「捨てたら、また隠れる人間に戻ってしまう気がして」という声が、頭の隅をよぎる。
「あ……あの……」
竜の視線がアルトへと移った。その巨大な瞳に射抜かれ、アルトの顔からみるみる血の気が引いていく。それでも、両足は後ろに下がろうとしなかった。
「ぼ、僕は……」
言うな、とオレは心の中で叫んだ。声にならなかった。舌が上顎に貼りついて、剥がれない。
「――勇者、です!」
アルトの声が峠に響いた。精一杯の大声だった。
一瞬、時が止まったように感じた。
竜の瞳孔が、すっと細くなった。
『また、それか』
声の温度が変わった。退屈さの奥から、もっと昏いものが滲み出てくる。
『勇者、勇者、勇者。何百年、同じ言葉を聞かされ続けてきたと思っている。名乗れば何かが変わるとでも思っているのか。世界のため、名を上げるため、皆、同じ台詞を吐き、同じように死んでいった』
地面が揺れた。竜の後方で岩肌が音を立てて崩れ落ちる。落石の轟きが谷に反響して、いつまでも尾を引いた。
『貴様らも、その台詞を吐いた瞬間から、私にとってはただの、これまでと同じ羽虫だ』
全身の毛が逆立った。これまでのどの依頼とも違う。これは、勝てない。逃げることすら、たぶん間に合わない。口の中が砂を噛んだように乾いていた。唾を飲もうとして、飲むだけの唾が残っていないことを知る。音が、一枚布を挟んだみたいに遠い。恐怖というのは、震えより先に、まず世界の音量を絞ってくるものらしい。視界も狭くなっていた。竜の姿だけが妙にくっきりと大きく、その周りの峠道も空も、輪郭を失って滲んでいく。頭では逃げろと分かっているのに、足はもう地面に根が張ったように動かない。膝から下が、自分のものだという実感ごと消えかけていた。
妙なもので、そういう時に限って、どうでもいい細部ばかりが目に入る。竜の顎の下で揺れる、鬚のような突起。鱗と鱗の隙間に挟まった、白茶けた小枝。アルトの手拭いが、腰の帯から半分ほどはみ出していること。世界の終わりを前にして、オレの目は律儀に情報を拾い続けていた。拾ったところで、届ける先など、もうないかもしれないのに。
アルトが、青ざめた顔のまま、それでも後ろに下がらなかった。震える足で、その場に踏みとどまっている。
「アルトさん、下がって!」
オレは思わず叫んだ。
「ミアさん……僕は……」
アルトの声は涙声に近かった。だが、その足は動かない。
竜が、大きく息を吸い込んだ。
空気そのものが竜の肺に吸い寄せられていくのが分かった。峠を渡っていた風が向きを変え、オレの髪が、頬が、竜の方へと引かれる。耳の奥で、圧の変わる鈍い音がした。
潮が引くようだ、と思った。海など、この身体で見たことがあるのかどうかも分からないのに、そういう比喩だけが、どこかから勝手に湧いてくる。引いた潮は、必ず波になって戻ってくる。それも、引いた分だけ大きくなって。
このままでは、全員、消し炭になる。
時間の流れ方が、明らかにおかしくなっていた。竜の胸郭がゆっくりと膨らんでいく、そのひと呼吸が、途方もなく長い。なのに、その引き延ばされた長さの中で、オレにできることは何ひとつ増えなかった。時間だけが薄く延ばされて、選択肢は一つも足されない。あれだけあったはずの夜が、酒場の喧噪が、罰金の帳簿が、脛の傷が、白ひげチーズの皿が――積み上げてきた日々の全部が、この一呼吸の前では、あまりにも軽かった。
逃げるべきだと分かっていた。分かっていたのに、身体はなぜか動かなかった。ゴルドの背中も、アルトの震える足も、セラの計算が壊れた顔も、全部が目に焼き付いていた。
おかしな話だ。書類の上では、いまだに臨時の四人目でしかないオレの足を、地面に縫い付けているのは、恐怖だけではなかった。それが何なのか、名前をつける余裕はなかった。ただ、逃げた後の自分を想像した一瞬の方が、竜の顎を見ている今より、ずっと寒かった。
ここで、逃げたら。
仲間を置いて逃げたら。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で、細い枝を踏んだような軋みがした。喉の奥、いつもの高い声とは違うもっと低い場所から、せり上がってくるものがあった。だが、恐怖がその感覚ごと押し潰した。
竜の顎が、大きく開かれる。喉の奥がうっすらと橙色に発光し始めていた。空気がその光に吸い寄せられていくように、びりびりと鳴っている。熱が来た。まだ何も放たれていないのに、頬の産毛が縮れそうな熱だけが、先に届いていた。
橙色の光が、峠の岩肌を舐めるように照らしていた。昼の光とは違う色に染まった世界の中で、ゴルドの背中も、アルトの横顔も、みんな同じ橙に塗り潰されていく。きれいだ、と一瞬でも感じてしまった自分に、心底ぞっとした。
その奥に見える、業火とも冷気ともつかない何か途方もないものが、渦を巻いていた。
誰かが悲鳴を上げた。それが自分の声だったのか、他の誰かの声だったのか、オレにはもう判別がつかなかった。
どうやら、これが、終わりらしい。