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第15話 順調、のち崩壊

第十五話 順調、のち崩壊

 峠道は、思ったより歩きやすかった。

 道幅は狭いが、荷馬車が通れないほどではない。傾斜も緩く、御者たちの表情に、少しずつ余裕が戻っていた。昨日、峠へ近づくにつれて肌を刺していたあの静けさは、一晩の野営を挟んで、いくらか薄れている。朝になれば鳥がぽつぽつと鳴き始め、木々の緑も、昨日より濃く見えた。ただの錯覚だろう。だが、錯覚でも、この朝には必要な錯覚だった。

 朝露に濡れた岩肌が、朝日を受けて鈍く光る。荷馬車の車輪が石を踏むたび、こつん、こつんと乾いた音が跳ね返る。その規則正しさが、不思議と足取りを軽くした。昨夜、火を囲む御者たちの顔に差していた翳りも、陽が高くなるにつれて薄れていく。夜のあいだに大きく見えた不安が、朝の光の下で等身大へ戻る。よくあることだ。

 峠の朝は、平地の朝とは光の当たり方が違った。谷が深いぶん、陽はまず高い稜線の縁を金色に灼き、それから時間をかけて、道のある底へ降りてくる。日向と日陰の境が、斜面をゆっくり移動していく。その境目を越えるたび、頬に触れる空気の温度が、はっきりと切り替わった。冷たい帯と、温い帯。それを何度もくぐりながら、一行は登っていく。鳥の声は、昨日途切れたきり、まだ完全には戻っていない。だが、まったくの無音というわけでもなかった。遠くで、一羽か二羽、遠慮がちに鳴いている。その遠慮が、かえって、この静けさの底の深さを教えていた。

 「案外、いけるもんですね」

 荷馬車の脇を歩きながら、隣のアルトに話しかけた。

 「はい。この調子なら、明日の昼には峠を抜けられそうです」

 アルトの声にも、張り詰めた緊張の底へ、わずかな安堵が混じっていた。剣の柄に置く手の位置も、昨日より落ち着いている。昨日まで、その手は、意味もなく手拭いを畳んでいた。今朝は、手拭いをきちんと帯へ収めて、代わりに柄へ手を置いている。畳むための手から、握るための手へ。変わったのは、ほんの数寸の位置だ。だが、その数寸が、この青年にとってどれほど遠い距離だったか、オレはなんとなく知っていた。

 ゴルドは周囲へ目を配りながら、口では軽口を叩いた。

 「静かなのは、良いことだ。静かすぎるのは、良し悪しだがな」

 「不吉なこと、言わないでください」

 「事実を言ってるだけだ」

 セラは歩きながらも帳簿を離さず、道中の消耗品――食料、水、松明の残り――を几帳面に記していく。

 「このペースなら、予定より半日早く抜けられそうね。浮いた半日のぶん、一日あたりの実入りが上がる計算になるわ」

 「セラさん、こんな時まで計算してるんですか」

 「こんな時だからこそ、よ。気の紛らわせ方は、人それぞれでしょう」

 なるほど、これも緊張のほぐし方の一つなのだろう。数字を数えているあいだは、数えられないものを見ずに済む。この人なりの、目の逸らし方だ。

 護衛見習いたちの口数も、朝より増えていた。昨日、峠の入り口で言葉をなくしていた男たちが、今日は荷馬車を押しながら、故郷の話や、街へ戻ったら何を食うかという話をしている。人は、坂の途中でずっと怯えてはいられない。恐怖にも、腹が減るのと同じで、続けているうちに慣れが来る。あるいは、慣れたふりをするのが上手くなる。オレも、その輪に混じって、白ひげチーズがどれほど売れているかを、少し盛って語った。皆が笑う。笑い声が峠の岩壁に当たって、乾いた反響を返してくる。その反響の乾き具合だけが、ここは街ではないと、こっそり念を押していた。

 ゴルドだけは、その笑いに、半分しか乗っていなかった。軽口を叩きながらも、視線は絶えず、道の先と斜面の上を往復している。前を歩く時は、拳の位置がいつもより高い。この爺さんは、笑い話の最中でも、逃げ道と間合いを勘定するのをやめない。それが染みついた癖なのか、消せない経験なのか、オレには分からなかった。ただ、その半分だけの笑い方を見ていると、こちらまで、完全には気を抜けなくなる。安心と用心の、ちょうど半々くらいの場所に、一行は置かれていた。

 一行は順調に峠道を進んだ。昼過ぎ、道の脇に小さな滝を見つけて、皆でしばし手を止めた。岩を伝って落ちる水は、掌が痛くなるほど冷たい。喉を鳴らして飲んだ護衛見習いの一人が、「これなら楽勝だな」と軽口を叩いた。

 「その台詞、この間、教えたばかりよね」セラが即座に釘を刺す。

 「え、駄目でしたっけ」

 「駄目。楽勝と言った者から順に、痛い目を見る。帳面には付けてないけど、経験則としては、外れないの」

 冷たい水を掌に受けると、指の節々が痺れるほどだった。顔を洗うと、坂を登って火照った肌が、一瞬で引き締まる。護衛見習いの若いのが、勢い余って足を滑らせ、片足を膝まで水へ突っ込んで、皆にひとしきり笑われていた。何でもない光景だ。何でもない光景が、これほど有難く思えること自体が、たぶん、この旅の異常さの裏返しだった。

 水音の中で、小さな笑いが起きた。滝の飛沫が陽に透けて、細かな虹を作っている。オレはその虹を、少し長く見ていた。この数日、こういう景色を、何度も手放しがたいと感じている。それが何の兆しなのか、その時のオレは、まだ言葉にできずにいた。

 午後の道は、それまでより岩が増えた。土の道が、次第に剥き出しの岩肌へと変わっていく。両側の斜面は高く切り立ち、見上げると、空が細く削られて、帯のように見えた。日が傾くにつれ、岩の影が長く伸びて、道の上に横縞を落とす。その縞をまたぐたび、足元が一段、暗くなった。峠の懐へ、少しずつ、分け入っている。その感触だけは、着実にあった。

 脚は、昨日よりずっと重かった。二日目の坂は、一日目に使い切ったはずの力を、さらにその下から搾り取ってくる。それでも、峠を抜けるという一点だけが、皆の足を前へ運ばせていた。あと一日。あと半日。数字が近づくほど、その数字にすがりたくなる。終わりが見えかけている時の人間ほど、油断も、祈りも、たやすく口にするものだ。

 夕刻前には、当初の予定地点をわずかに超える場所まで到達した。御者の一人が明るい声で「今日は野営が楽になりそうだ」と笑い、別の一人が、担いでいた荷を早々に下ろしかけた。

 オレも、内心では少しだけ気を緩めていた。峠越えは、思っていたよりずっと穏やかだ。竜の噂も、案外、伝わるうちに膨らんだだけのものだったのだろう。半月も貼られて誰も受けなかった依頼、モンメリー五十枚という桁外れの報酬――あの数字は、ひょっとすると、危険そのものの値段ではなく、皆が竜を怖がっているという評判の値段だったのかもしれない。実際の峠は、こうして歩いてみれば、ただの険しい山道でしかない。そう思いかけていた。思いかけて、いた。

 その時だった。

 前方の道の折り返しから、乱れた足音が、複数、近づいてきた。

 「何だ?」

 ゴルドが真っ先に反応した。拳が、瞬時に構えの形を取る。

 足音は、揃っていなかった。一定の間隔で刻まれるはずの歩みが、もつれ、つんのめり、また立て直しては乱れる。逃げる足音というのは、こういう音がするのか。追う者の足音には調子があるが、追われる者の足音には、それがない。ただ、後ろにあるものから一歩でも遠くへ、という焦りだけが、地面を蹴っていた。

 折り返しの向こうから、転げるように駆けてきたのは、見覚えのある三人組だった。

 「――ザックさん!?」

 思わず声が出た。

 三人の姿は、出発の朝とは、別人のようだった。ザックの、あの新品だった鎧は、あちこちがへこみ、片方の肩当てが失われている。顔は蒼白で、目だけが血走ってぎらついていた。バルガは足を引きずり、リトの肩へ半身を預けている。そのリトも、いつもの軽薄な達観をどこかへ落としてきたらしく、口の端が痙攣したように震えていた。三人とも息が上がりきって、まともに言葉を結べる状態ではなかった。汗が埃と混じって、頬に幾筋も垂れている。鎧の隙間から覗く肌には、擦り傷とも打ち身ともつかない痕が、いくつも走っていた。装備の傷より、三人の目に宿ったものの方が、よほど雄弁だった。見てはいけないものを見た者の、目だ。

 帰りにうちの店、寄ってくださいね。

 長い話になる、と笑って歩き出したあの背中は、もう、どこにもなかった。

 「――逃げろ!」

 ザックが掠れた声で叫んだ。

 「逃げろ、今すぐ! あれは駄目だ! 勝てる相手じゃない!」

 「ザックさん、何があったんですか」

 「起こしちまった……いや、違う、最初から起きてたのかもしれん……くそ、分からん、とにかく――」

 言葉が、途中で崩れた。恐怖が、あの長広舌の持ち主から、喋る順序そのものを奪っている。

 バルガが荒い息のまま、なんとか説明を絞り出した。

 「峠の中腹に、大きな洞窟がある。そこで、寝ていた。いや、寝ていたように、見えた。ザックが名乗りを上げた、その瞬間に――」

 「目を、開けやがった」リトが震える声で継いだ。「あの目、俺は一生、忘れられねえ……」

 「戦ったんですか」

 「戦えるわけがあるか!」ザックが叫んだ。「一撃も、こっちからは出せなかった。ただ逃げた。それしか、できなかった」

 あの声の大きさ、あの底なしの自信、あの長い口上――そのすべてを、恐怖という一つの感情が、根こそぎ奪い去っていた。人が、ここまで変わる。背筋が冷えたのは、その落差のせいだけではない。変わり果てた三人の姿が、この先で待っているものの大きさを、どんな言葉より正確に伝えていたからだ。

 「あれは、どこへ向かってる」

 ゴルドの問いに、ザックは、力なく後方を――今、自分たちが駆けてきた方角を指した。

 「分からん。ただ、俺たちを追ってくるようには、見えなかった。ただ――」

 声が、詰まった。

 「目が合った瞬間、何かが、こっちを向いた気がした」

 言い終えるより先に、遠くの山肌で、木々の合間の影が動いた。

 最初は雲の影かと思った。違った。動いている。ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ。目を凝らすほど、その輪郭は現実味を増していく。見間違いであってほしいと願ったが、世界は、そうそう願い通りにはできていない。

 風が、止まった。

 空気の匂いが変わった。硫黄に似た、それでいて、もっと重く、もっと古い匂い。生き物の吐く息とも、火のにおいとも違う、ずっと昔に封じられていたものが初めて外気へ触れたような、そういう匂いだった。

 馬たちが一斉に嘶き、後ずさりを始めた。御者たちが必死に手綱を抑えている。

 「――来る」

 ゴルドの声が、初めて、芯から本気の緊張を帯びていた。

 オレは視線を、影の方向へ向けた。木々の隙間から覗くその輪郭は、山を一つ、そのまま起き上がらせたほどの大きさに見えた。山肌を這うように、ゆっくり、着実に、近づいてくる。翼が一度、大きく広がり、それから畳まれた。鱗の擦れ合う音が、これだけ離れていても、はっきりと耳へ届く。

 誰も、動けなかった。

 ザックたちが逃げてきた方向とは、逆の側から。まるで退路を塞ぐように。あるいは、ただの気まぐれで。

 その巨大な影が、峠道の先へ、ゆっくりと姿を現した。

 誰も声を出さなかった。出せなかった、というのが正確だ。喉の奥が勝手に強張って、言葉になるはずの空気を押し止めている。隣に立つアルトの呼吸が、浅く、速い。ゴルドの拳は、すでに固く握られていた。セラの手が、いつ落としたとも知れず、帳簿を取り落としている。地に伏せた頁の上を、峠の風が一枚、めくって過ぎた。

 この数日で積み重ねてきた依頼も、軽口も、罰金の記録も、そのすべてが、この一瞬のための、長い前置きだった。考えている場合ではない。分かっていて、それでも思考は止まらない。止まらないまま、目だけが、峠道の先を捉えていた。

 順調だった旅は、ここで終わった。

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