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第14話 出発と道中前半

第十四話 出発と道中前半

 出発の朝は、拍子抜けするほど晴れていた。雲一つない空の下で、車輪に油が差され、馬が鼻を鳴らし、積み荷を確かめる声が飛び交う。喧騒はいつもの朝と変わらない。ただ、その弾み方が少しだけ違った。荷を積む手が急いていて、笑い声が上ずっている。門をくぐればもう街ではない。その一線を、みんなどこかで意識していた。

 隊商の主人は、ドーマスといった。痩せた初老の男だ。出発までのあいだに、その頭を何度下げたか、もう数えきれない。

 「本当に、頼みます。この取引が駄目になったら、うちは終わりでしてな」

 「任せてください」セラが淡々と応じた。「報酬分の仕事は、必ず果たします」

 荷馬車が三台。御者と護衛見習いが数名。そこへオレたち四人が加わっての、峠越えだった。街を出る門のところに、店主がわざわざ立っていた。厨房を誰かに任せてきたのだろう。前掛けに、小麦粉の跡が白く残っている。

 「ミア、無事に帰ってこいよ。白ひげチーズの新作、待ってるからな」

 「はい、必ず帰ります」

 オレは笑って答えた。営業の声ではない。素の声だ。門の影から街並みを振り返ると、朝の光を受けた屋根が、いつもより丁寧に並んで見えた。昨日までは、ただの屋根だった。今朝はなぜか、一枚ずつ数えたくなる。

 荷馬車の周りでは、護衛見習いの若い連中が、まだ硬い顔をしていた。峠を越えるのは初めてなのだろう。腰の剣に、必要以上に何度も手をやっている。ドーマスがその一人の肩を叩いて、何か短く声をかけた。若いのが、ぎこちなく頷く。この隊商にとって、この一回は、ただの一回ではないのだ。全員の暮らしが、三台の荷馬車に積み込まれて、峠を越えようとしていた。

 街道に出て、しばらくは平和なものだった。空は晴れ、風はぬるく、道の両側に見慣れた田園が広がっている。麦の穂が、風の通り道をなぞって、一斉に倒れては起き上がる。遠くで牛が一声鳴いた。世界は、峠のことなど何も知らない顔をしていた。

 「――こういう時に限って何も起きないと、逆に不安になりますよね」

 軽い気持ちで口にした。セラの反応は速かった。

 「その台詞、今すぐ撤回して」

 「え、なんでですか」

 「暢気なことを口にすると、大抵、あとで痛い目を見る。長年の経験則よ」

 「そういうものですか」

 「そういうものよ。験を担ぐって言葉、あんたは知らないでしょうけど」

 験を担ぐ。その言い回しが、妙に手に馴染んだ。前世(仮)のどこかで、似たようなことを、もっと短い一言で片付けていた。その一言の形が、出てこない。輪郭の手前で霞んで、肝心の名前のところだけ、ぽっかり抜けている。この抜け方には、覚えがある。金額を換算しようとして換算先が消えていた、あの朝と同じ抜け方だ。

 「――なんとなく、分かる気がします」

 「分かるなら、なおさら言わないで」

 「すみません」

 道中、ゴルドは相変わらずだった。轍を跨ぐ拍子に、支えるふりでオレの手を握ろうとして、パシンと弾かれる。休憩のたび、川辺で水を汲むオレの背中へ「その姿勢、腰の据わりが――」と言いかけては、振り向きざまの一睨みで黙る。

 「ゴルドさん、山道でもやるんですね、それ」

 「山だろうと谷だろうと、俺の手は、俺の意思とは無関係に動く」

 「その言い訳、聞き飽きました」

 セラが、揺れる荷台の上で帳簿を広げていた。羽根ペンの先が、馬車の揺れを見越して、待って、置いて、また待つ。

 「累計、モンメリー二十六枚」

 「増えるペース、落ちませんね」

 「落とす気が、あの人にはないもの」

 アルトは道中もずっと、手拭いを畳んでは開き、開いては畳んでいた。ただ、その手つきが以前と違う。畳むための畳み方ではなく、何かを測るための畳み方だ。

 「アルトさん、今日は畳み方が違いません?」

 「あ、気づきました?」照れたように笑う。「峠に近づいたら、すぐ剣が抜けるように、柄の位置を確かめてるんです」

 「準備、してるんですね」

 「はい。今回は、ちゃんと」

 畳んだ手拭いを帯へ挟み、アルトは前を向いた。その横顔から、いつもの眉の下がり方が消えていた。

 昼の休憩を挟むと、道の景色が少しずつ表情を変えた。田園の平らな緑が退いて、丘の起伏がせり出してくる。畑の畝が消え、名を知らない野草が、道端に点々と混じり始める。小さな川を木橋で渡るたび、橋板が軋み、御者が手綱を握り直す。水の音が、平地のそれより高く、忙しない。土地が上へ向かって傾き始めているのが、足の裏より先に、耳で分かった。

 御者や護衛見習いたちは、オレたちの軽口によく笑った。バニー姿の遊び人がパーティーにいるというのが、そもそも面白いらしい。

 「見た目より、口が達者なんです」

 「口だけかと思ったが、山羊の一件、街で聞いたぞ。あんたら、なかなかやるじゃねえか」

 「噂になってるんですか、あれ」

 「白ひげチーズの評判とセットでな」

 知らないところで、話が独り歩きしていた。取り立ての代行が、害獣退治の武勇伝に化け、チーズの美味さと縒り合わさって、一つの物語に育っている。誰も嘘はついていない。ただ、皆が少しずつ、面白い方へ寄せて語る。その積み重ねが、本当らしい顔をして街に居座る。前世(仮)でも、同じ仕組みを飽きるほど見た。転がり出した一言は、原形をなくすまで転がり続けるのだ。

 昼過ぎ、休憩を取った野原で、護衛見習いの一人が竜の話を持ち出した。

 「なあ、あんたら、峠の先まで行くんだろう。竜に会ったら、どうする」

 「会わないことを祈ってます」正直に答えた。

 「祈るだけかよ」

 「祈って駄目なら、逃げます」

 「逃げるのかよ」

 「逃げるが勝ち、って言葉、この世界にもありますよね」

 護衛見習いは苦笑した。「まあ、それが一番賢いのかもな」

 軽口の応酬に、焚き火を囲む輪の空気が、少しほぐれた。だが、笑いの尾が引いたあと、誰も次の話題を継がない一拍があった。竜、という一語だけが、火の粉のように宙へ残って、消えていく。皆、口にしてはいけない名を、うっかり呼んでしまったような顔をしていた。

 道が険しくなるにつれ、ゴルドは新しい言い訳を開発した。

 「山では、手が滑りやすくなる。地形のせいだ」

 「その理屈、平地でも聞きました」

 「平地とは、滑り方の質が違う」

 セラが帳簿から目も上げずに付け足す。

 「山岳地帯割増、次から加算するわ」

 「割増、ですか」

 「急な坂ほど、滑る言い訳も急になる。だったら、料金もそのぶん急にするのが筋でしょう」

 ゴルドが黙った。セラの帳簿の前では、言い訳にすら相場がつく。

 護衛見習いの一人が、オレの足元をまじまじと見て、真顔で言った。

 「その格好、峠越えの正装なのか。景気付けか何かで」

 「違います。初期装備です」

 「初期装備で峠を越えるとは、豪気だな」

 豪気なのではない。選べる靴が、最初からこれ一足きりだった、というだけの話だ。訂正するのも億劫で、曖昧に笑って流した。ヒールというのは、石畳の上で美しく立つための道具であって、坂を登るための道具ではない。三歩ごとに踵が小石を拾い、五歩ごとに網タイツが藪へ挨拶をする。誰だ、こんな靴で山を越えろという世界は。文句の一つも言ってやりたいが、宛先がどこにも見当たらない。

 坂は、時間をかけて脚に効いてきた。平地なら何ということもない距離が、傾斜のぶんだけ、余分に息を奪っていく。ふくらはぎが、一歩ごとに小さく強張る。接客で一日中立ちっぱなしの脚は丈夫なはずなのに、登りに使う筋は、それとはまた別の場所にあるらしかった。荷馬車の後ろについて、車輪の刻む轍を目印に、ただ足を運ぶ。軽口を叩く余裕は、坂のどこかで、四人とも一緒に手放していた。

 夕方が近づき、野営の支度が始まった。

 荷を下ろす合間、護衛見習いの一人が、藪の奥から妙な獲物を提げて戻ってきた。犬ほどの大きさで、鱗とも毛ともつかないものに覆われている。名前を知る者は、誰もいなかった。

 「これ、食えるんですかね」

 「さあな。骨まで毒かもしれん」ゴルドが顔をしかめた。「捨てるしかないだろう」

 「――ちょっと、待ってください」

 アルトが手を挙げ、手拭いを帯へ挟み直すと、旅装の底から使い込まれた小刀を取り出した。柄の減り方が、腰の剣とは比べ物にならない。

 「僕、これでも実家が食堂なので」

 獲物を受け取ったアルトの手つきが、それまでとは別人のものに変わった。腹を割く角度、皮を剥ぐ力の加減、脂の多い部位を見極めて薄く削ぐ手さばき――迷いが、どこにもなかった。剣を握ると眉が下がる青年が、包丁を握ると、まったく別の生き物みたいに手が澱みなく動く。香草を揉んで匂いを確かめ、削いだ肉に軽く擦り込み、串に刺して火にかざす。脂が爆ぜる音と、嗅いだことのない香ばしい匂いが、野営地に広がっていく。護衛見習いたちが、鼻を鳴らしながら集まってきた。

 「毒なら、僕が最初に倒れます。それで判断してください」

 笑って言う軽口に、誰も本気で頷けなかったが、匂いには誰も逆らえなかった。焼き上がった一切れを、まずアルトが自分の口へ運ぶ。しばらく待って、何も起きないのを確かめてから、皆に差し出した。

 最初に手を伸ばしたのはゴルドだった。一口かじって、しばし黙る。

 「――悪くない」

 「悪くないって、それだけですか」オレは横から急かした。「もっとちゃんと言ってくださいよ」

 「言葉にするのは、お前の方が得意だろう」

 水を向けられて、アルトは少し考えてから答えた。

 「脂の甘みが先に来て、その裏に、川底の石みたいな苦味がうっすら残るんです。噛むほど旨みが出るので、たぶん強火で炙るより、じっくり炙った方が正解でした。……たぶん初めて食べる部類の肉なんですけど、仕留めてから時間が経ってなかったぶん、臭みがほとんど出てない。運が良かったです」

 誰も、しばらく言葉を継げなかった。

 「……アルトさん、今の、誰の声ですか」セラが眼鏡の奥で目を丸くした。「いつもの喋り方と、全然違う」

 「あ……すみません、つい」

 アルトは慌てて肩をすくめたが、遅かった。剣を語る時のあの頼りない口調はどこにもなく、代わりにあったのは、迷いなく言い切る、職人の言葉だった。戦えない、逃げ腰だ、と皆に思われている青年の中に、これだけは誰にも譲らない一角がある。オレはその横顔を、少しだけ見直した。勇者らしくない勇者は、今夜、包丁の柄を握っている時だけ、誰よりも勇者らしかった。

 一切れが、オレの元にも回ってきた。串を差し出されて受け取る瞬間、指先が意思とは無関係に動いて、両手できっちり角度を揃えてしまう。渡す側でもないのに、まるで名刺でも扱うような構えだった。誰も気にしていない。オレ自身、すぐには気にしなかった。

 口に運ぶと、脂の甘さの奥に、覚えのある重さがあった。値段のつけ方を知っている重さ、というのか。安い店では出てこない、大事な話の締めくくりにだけ出てくる類の――名前が、出てこない。舌の上には確かにあるのに、その名前を仕舞ってあるはずの引き出しだけが、見当たらない。

 脇腹の奥が、すっと冷えた。誰かに背後へ回り込まれた時の、あの感覚に似ている。振り返っても、そこには焚き火と、照れ笑いのアルトしかいない。

 「――ミア、どうかした?」セラが怪訝そうに眉を上げた。

 「あ、いえ。……美味しいなと思って」

 流した声は、いつもの接客の声だった。誰も、深追いはしなかった。オレ自身も、それ以上は追わなかった。

 「――ゴルドさん、おかわりです」「催促しなくても取る」

 もう一串が、あっという間に消えていった。峠へ近づくにつれ張り詰めかけていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

 御者たちは焚き火を囲んで、峠越えの経験談を語り合う。その多くは、峠の手前で引き返した話ばかりだった。実際に竜を見たという証言は、一つもない。誰もが「聞いた話では」から語り出し、誰も「見た」とは言わない。近づいた者は帰らず、帰った者は近づいていない。その勘定の合わなさだけが、火に照らされた顔を、少しずつ強張らせていった。

 誰も見ていない、というのは、考えてみれば奇妙な話だった。竜の噂なら、街でいくらでも聞いた。全長は家一軒分だと言う者もいれば、丘ほどもあると言う者もいる。色は漆黒、いや灰色、いや青みがかっていた――客の数だけ、竜の姿があった。噂は伝わるうちに尾ひれがつくものだが、尾ひれがつくには、まず胴体がいる。誰か一人でも実物を見て、その話を皆が少しずつ盛ったのなら、大きさや色の元の値くらいは揃うはずだ。なのに、元の値からしてばらばらだった。まるで、誰も同じものを見ていない。あるいは、見た者が一人も帰らなかったから、語り継がれるうちに姿が散らばった。どちらであっても、あまり明るい結論には転ばない。転ばないと分かっていて、それでも頭は勝手に可能性を並べていく。数えるのをやめる頃には、焚き火の熱が、妙に遠く感じられた。

 その夜、街の灯りの届かない野営地で、オレは焚き火から少し離れて空を見上げた。星が、恐ろしいほど鮮明だった。だが、知らない並びだ。この空を見上げるのが何度目なのか、それすら曖昧なのに、並びだけは頑として見覚えがない。なのに今夜は、その見覚えのなさを、綺麗だと思った。知らない星に慣れるのと、この四人に慣れるのは、たぶん同じ種類のことだ。焚き火の向こうで、ゴルドの手が誰かの毛布へ伸びかけ、セラの羽根ペンの柄が小さく鳴って、その手を宙で止めた。二十六枚の帳尻は、今夜はもう動かない。オレは笑って、また空へ目を戻した。

 その夜は、交代で見張りに立った。オレの番は、火が一番小さくなる頃合いだった。毛布を肩まで引き上げて座っていると、隣でゴルドが、目を閉じたまま口を開いた。眠っているものと思っていた。

 「火は絶やすな。獣は火を嫌う」

 それだけ言って、また黙る。獣、と言った。竜、とは言わなかった。火程度で退く相手のことを話しているうちは、まだ、いつもの夜だった。オレは薪を一本足して、火の粉が細く昇っていくのを見送った。峠の向こうの闇は、こちらの火を、少しも映し返してこなかった。

 峠の入り口へ近づくにつれ、その空気が明らかに変わっていった。

 最初に気づいたのは、鳥だった。街を出てすぐの頃、道の両側であれほど囀っていた小鳥の声が、ある地点を境に、ぱたりと聞こえなくなっている。次は、虫だ。草むらで絶えず鳴いていた羽音の層が、耳の底から一枚ずつ剥がれて、やがて途切れた。葉擦れも変わった。風は同じ強さで吹いているのに、木々の返す音が乾いて、細い。緑の濃さも、坂を登るごとに少しずつ抜けていく。最後に消えたのは、足元の気配だった。道端で草を食んでいたはずの小動物が、一匹も見当たらない。生き物が、順番に、この一帯から退場していた。何かに、席を譲るように。

 「――静かですね」

 誰にともなく呟いた。

 「ああ」ゴルドが短く応じた。その声から、いつもの軽薄さが抜けていた。

 御者たちの雑談も、止んでいた。荷馬車の車輪が軋む音と、蹄が土を打つ音だけが、やけにはっきりと谷へ響く。セラが帳簿を閉じた。羽根ペンの音が消えると、周囲の静けさが、一段深くなる。アルトが剣の柄へ手を添えた。畳むための手ではない。確かめるための手だ。

 胸の内側で、何かが張り詰めていくのを感じた。これまでの依頼とは、質の違う気配が、峠の向こうから流れてくる。喉の奥が乾いて、唾を飲む拍子を、さっきから何度も逃している。指先だけが冷たいのは、坂を登って火照った身体の中で、そこだけが別の答えを出しているからだった。身体というのは、頭より先に、状況の重さを知っている。空を見上げると、雲の動きが、心持ちゆっくりに見えた。風は止んでいないのに、時間のほうが、坂を登りきれずに足踏みしているようだった。

 道中の呑気さは、この坂のどこかで置いてきてしまった。拾いに戻る道は、もう塞がっている。峠の先で待つものの名を、この一行はまだ知らない。知らないまま、蹄の音だけが、そこへ確実に近づいていく。

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