第13話 破格の依頼
第十三話 破格の依頼
朝のギルドは、いつも通りの喧騒に満ちていた。討伐依頼を求める者、護衛の仕事を探す者、羊皮紙をめくる乾いた音。カウンターの奥からはインクと封蝋の匂いが流れ、扉が開くたびに、外の屋台の焼きたてのパンの匂いが割り込んでくる。掲示板の前には今日も列ができていた。列というより渦に近い。誰かが一枚剥がすたびに渦の形が変わり、空いた場所へ次の紙が貼られていく。紙が入れ替わるたび、誰かの今日の稼ぎが決まる。ギルドの朝というのは、そういう場所だ。
その渦の中で、一枚だけ、明らかに浮いている依頼書があった。
浮いている、というのは貼られてからの日数のことではない。金額のことだ。周りの依頼書が色あせながらも新陳代謝を繰り返しているのに対して、その一枚だけは誰にも取られることなく、じっとそこに留まり続けている。紙も違った。安い獣皮紙ではなく厚手の上物で、角がぴんと立ったまま、半月分の埃だけを薄く被っていた。剥がされもせず、触られもせず、日に焼けることさえ許されていないような白さだ。よく見れば、その一枚の前だけ人の流れが不自然に膨らんで避けていく。金額というのは人を吸い寄せるものだと思っていたが、この紙に限っては、逆に人を押し返していた。
『峠越え隊商護衛 目的地:バルコ商業圏 報酬:モンメリー五十枚』
オレはその数字を三回見直した。これ、大金だ。大金……のはずだ。とっさに頭の中で何かに換算しようとして、換算先が、空だった。五十枚は五十枚。それ以上でも以下でもない。空欄の縁だけが妙に手に馴染む。前にも一度、この縁に触れている。
指先が冷えていた。耳の奥で自分の鼓動が数を数えている。喉が渇いているのに、唾を飲む拍子を逃し続けている。網タイツの膝の裏を、朝の冷気がすっと撫でていった。身体のほうが先に、この紙の意味を分かっているのだ。五十枚。ピィなら五百枚。スープなら二百五十杯。……いや、待て。換算先が空だと言った口で、スープには換算できるのか。できる換算とできない換算がある、ということか。それとも、できる換算だけが後から覚えたもので、肝心のひとつだけが根こそぎ抜け落ちているのか。考えは進まず、数字だけが目の前で白々と光っていた。
「セラさん、これ、桁、間違ってません?」
「間違ってないわね」
セラの声がいつもより、わずかに上ずっていた。この人のこんな声は初めて聞く。
「報酬、五十枚ですよ。うちの一回の依頼が、だいたいピィ十数枚からせいぜい二十数枚だったのに」
「知ってる。だから、こんな声が出るのよ」
セラの目が依頼書に釘付けになっていた。指先が微かに震えている。いつもなら即座に損得を弾き出す頭が、あまりの数字に桁を見失っている顔だった。
「なんで、こんなに高いんですか」
オレの問いに答えたのはドリスだった。カウンターの奥から、少し困ったような笑みを浮かべて近づいてくる。
「このルート、峠を越えるんです。ご存知の通り、あの峠には」
「竜、ですよね」
「はい。ザックさんたちが向かった、あの山域を通ります」
場の空気が少し重くなった。ザック隊の消息はまだない。もう十日近く経つが、戻ったという報告も死んだという報告もない。ただの無音だった。
背後ではギルドの朝が変わらず続いている。依頼の値切り交渉、受付の呼び出し、床を鳴らす鋲底の靴。その音のどれもが、この一枚の周りだけを避けて流れていた。掲示板というのは正直なものだ。紙に書かれた文字よりも、紙の前の空白のほうが、よほど雄弁に危険を語っている。
「だから、報酬が高いんです」ドリスは続けた。「この依頼、もう半月近く貼られたままです。誰も受けないので」
「誰も、って、そりゃそうですよ。危険すぎます」
「隊商の主人も承知の上で、それでも報酬を積んでいます。バルコ商業圏との取引が、あの方には店の命運そのものだそうです」
オレは依頼書をもう一度見た。五十枚。指の腹で厚紙の縁をなぞると、羽毛のような細かい繊維が引っかかった。掲示板のどの紙よりも上等で、どの紙よりも嫌われている一枚だった。
「セラさん、これ、受けるんですか」
セラはすぐには答えなかった。羽根ペンを胸元に仕舞い、腕を組み、目を閉じる。損得を天秤にかける、いつものポーズだ。だが今日は、その天秤がなかなか静止しなかった。
「先に、うちの帳簿の話をするわよ」目を閉じたまま、セラが言った。「アルトの剣の手入れ代。宿の家賃の値上げ。ゴルドさんの『ちょっとした付き合い』で増えた小さな借り。細かいのが積もって、現在の負債、締めてモンメリー八枚。ここのところの稼ぎは、ほとんどその返済に消えてる。稼いでは消え、稼いでは消え。私の帳簿はこの三週間、ずっと同じ景色よ」
「うんざりする景色ですね」
「うんざりって言葉は帳簿に書けないの。だから『改善の余地あり』って書いてある」
「で、この依頼なら」
「受けるべき理由。一つ、報酬でその八枚を完全に清算できる。二つ、以降の当面の生活資金にも余裕ができる。三つ――」
セラは指を折るのをやめた。
「受けない理由。峠には竜がいる。しかもザック隊の消息が不明。危険度はこれまでの依頼と比較にならない」
「危険度、数字にできないんですか」
「できない。前例がなさすぎる」
セラはため息をついた。
「本来なら、危険度が数値化できない依頼は受けない主義よ。危険を見積もれない仕事は、利益が出るかどうかも見積もれない」
「でも」
「でも、五十枚はあまりに大きい」
セラはそこで初めて、迷いの滲んだ顔をした。いつも即答で数字を弾き出す人が、今は数字の前で立ち尽くしている。
ゴルドが腕を組んで依頼書を眺めていた。表情はいつもより静かだった。
「――竜の縄張りを、隊商引き連れて越える、か」
「ゴルドさん、どう思います」
「危ない。それは間違いない」ゴルドは低い声で言った。「だが、危ないってのは、行けないって意味とは違う」
「行けるんですか」
「行けるかどうかは分からん。ただ、この手の話は、逃げ回ってばかりじゃいずれ向こうから来る。竜の縄張りの近くで暮らしてる限り、いつかは避けられない話だ」
言い終えたあとも、ゴルドは依頼書から目を離さなかった。眉の上の古傷に朝の光が落ちて、いつもより深い溝に見えた。竜までの距離を、この爺さんはとうに測り終えているのではないか。ふと、そう思わせる目だった。
アルトは依頼書を見つめたまま、何も言わずにいた。手拭いを畳む手が、いつもよりゆっくりだった。
「アルトさん、どう思います」
「僕は」アルトは少し間を置いてから答えた。「怖いです。正直、とても怖いです。でも」
「でも?」
「ザックさんたちが、まだ帰ってきていません。もし、今、僕たちがこの依頼を避けたら、その先、誰かが同じ道を通ることになった時も、たぶん、みんな避け続けます。誰かが、通らなきゃいけないなら」
アルトは剣の柄に軽く手を添えた。
「僕は、勇者を名乗ってます。逃げないために、名乗りました。ここで逃げたら、僕は、また、あの日の物置の裏に戻ってしまう気がします」
沈黙が落ちた。ギルドの喧騒が急に遠くなり、掲示板の紙が空気の流れでかさりと鳴った。
オレはその沈黙の中で、自分の番が近いことを知った。受けるか、受けないか。頭の中に何人ものオレが出てきて、口々に喋り始める。
一人目のオレが言う。危険は承知の上、それでも五十枚だ。負債の八枚を消して、残りは四十二枚。四人で割っても一人モンメリー十枚と少し。日当ピィ二枚の提示から始まった身には、目眩のする数字だ。
二人目のオレが言う。金の問題じゃないだろう。ザック隊が十日帰らない峠だぞ。あの声の大きい男が、あの用心深い大男が、あの達観した小男が、揃って十日も無音だ。無音というのはたぶん、報せの中でいちばん悪い種類の報せだ。
三人目のオレが言う。ならなおさら、誰かが峠に近づかない限り、無音は無音のままだ。隊商の護衛として行けば、少なくとも道の途中までは、あの三人の消息を探す旅にもなる。
四人目のオレが、いちばん小さな声で言う。……お前、本当はもう決めてるだろう。理屈を三つ並べたのは、決めたあとの飾り付けだろう。
……ばれていた。自分にばれていたら、世話はない。
セラがゆっくりと目を開けた。
「――受けるわよ」
「セラさん」
「損得の計算が揃ったわけじゃない。危険度は依然として数値化できない。でも」
セラは依頼書を手に取った。
「このパーティーの構成員が、揃って『行く』方向を向いているなら、私が一人で反対する理由も薄くなる」
「セラさんも、行きたいんですか」
「行きたいとは言ってない。ただ、私の帳簿には、負債の完全清算という項目がずっと引っかかってた。この機会を逃したら、次にいつ、これだけの額が舞い込むか分からない」
……最後まで、損得の言葉で締めくくる人だった。ただ、依頼書を持つ指は、もう震えていなかった。
「アタシも、行きます」
「知ってる。あんたが抜けるなんて、選択肢、最初からなかったでしょう」
「セラさん、たまに、こっちの気持ちを先回りしすぎません?」
「先回りするのが、私の仕事よ」
ドリスが書類を差し出しながら、少し心配そうに言った。
「どうか、ご無事で」
丸眼鏡の奥の目は、書類ではなくオレたちの顔を順に見ていた。受付嬢が手続きの相手を見る目ではなく、見送る側の目だった。
署名の順番が回ってきた。ペンを受け取ると、軸が指の中で一度滑った。手のひらに汗をかいていたことに、その時ようやく気づいた。読めるはずのない形の文字を、オレの手はよどみなく書いていく。書き終えた名前だけが、紙の上で他人のような顔をしていた。
掲示板から例の一枚が剥がされると、半月ぶん日に焼けなかった白い空白が、板の上にぽっかりと残った。周りの冒険者が何人かこちらを見た。物好きを見る目と、拝むような目が、半々だった。
ギルドを出ると、外はもう夕暮れだった。空が燃えるような橙色に染まっている。誰もその色を美しいと口にはしなかった。四人分の足音だけが、石畳の上でいつもより揃っていた。
帰り道のハイベルは、いつも通りだった。夕餉の匂い、店じまいの声、荷車の軋み。すれ違う人々は、オレたちが明日どこへ向かうのかを知らない。知らないまま、パンを買い、子供を叱り、看板を仕舞っている。その当たり前の景色が、今日は妙に手放しがたかった。五十枚の重さというのは、革袋の重さのことではないのだ。こういう夕方を、まとめて賭けの皿に載せる重さのことだ。
「腹が減ったな」ゴルドが言った。「峠を越えるにも、まず飯だ」
「今夜は少しだけ上等なものにするわ。良い飯は、良い判断を買うの」
「セラさんがそれを言うの、珍しいですね」
「優しさじゃないわ。投資よ」
夜、宿に戻ってから、セラが帳簿の一番新しいページに大きく書き込んだ。
『峠越え隊商護衛 受注』
インクが乾くまで、誰もそのページを閉じなかった。
廊下の向こうでクルルが小さく鳴いた。覗きに行くと、今夜の瞼は妙に固く閉じている。当てにならない指標だと、皆で笑ってきた瞼だ。それでも、あの山羊なりに何かを読んで閉じたのだとしたら、その答えは聞きたくなかった。
寝床に入っても、目は冴えたままだった。天井の木目を辿るうちに、胸の中で日々が勝手に並んでいく。シチューをぶちまけた朝。財布を失くした夜。赤字で終わった初仕事。白ひげチーズの商談がまとまった日、手のひらに残った熱。物置の裏から出てこられなかった、と打ち明けた声。積み重なった一日一日の先に、あの一枚の紙が待っていた。
明日、オレたちは峠へ向かう。これまでの日々が助走だったのなら、踏み切る足はもう地面に着いている。あとは、跳ぶだけだ。