第12話 ゴルドの武勇伝
第十二話 ゴルドの武勇伝
その夜、ゴルドは珍しく静かに飲んでいた。
店内はいつも通りの賑わいだった。ドランがエールを傾け、誰かが調子外れの弦を爪弾き、煮込みの湯気がカウンターの奥から漂ってくる。厨房から流れてくるシチューの匂いに、もう皿を落とした夜のことを思い出さなくなっている自分がいた。慣れというのは、匂いから先に来るものなのだろう。その賑わいの真ん中で、ゴルドの周りだけが、少し違う温度をしていた。
口数が少ない、といっても酒の量は変わらない。むしろ多い。グラスの減りが、いつもより速い。減らしても減らしても、口のほうは動かないままだ。カウンターの隅で、遠くを見る目でグラスを傾けている。
カウンターの内側は、夜が更けるほど足の裏から冷えてくる。石の床が昼の熱を手放して、薄い靴底越しに冷たさだけを返してくる時刻だ。オレは布巾でグラスを拭きながら、その冷たさに片足ずつ体重を移していた。客の笑い声、椅子の軋み、注文を通す店主のだみ声。聞き慣れてしまえば、夜の酒場は一つの大きな寝息のようなものだ。その寝息の中で、ゴルドの沈黙だけが、妙にくっきりと縁取られて見えた。
「ゴルドさん、今日はやけにしんみりしてますね」
オレは空いたグラスに酒を注ぎながら声をかけた。
「――嬢ちゃん、俺がその昔、魔王討伐に加わってたって話、したことあったか」
「初耳です」
「じゃあ、聞くか」
ゴルドはそう言うと、グラスを一気に呷った。喉が上下して、酒が半分ほど消える。それから、袖で口を拭った。
「あれは今から――そうだな、十五年は前になるか。俺はまだ、拳より魔法を信じてた頃でな」
「殴った方が早いって気づく前ですか」
「その通りだ。若気の至りってやつだな。魔王軍の本拠地まで攻め込んで、最後は俺が上級魔族の一体を氷漬けにして、それで勝負が決まった」
氷漬け。
「ゴルドさん、火は使わないんですか」
「使う。使うが、あの時は氷だった。冷気の呪文で、一撃だ」
なんとなく、この話には聞き覚えの角度の違和感があった。だが、それが何なのかは、はっきりしない。氷か火か、というだけの些細な食い違いのはずなのに、そこだけ床が抜けているような、足の裏の頼りなさがある。オレは黙って続きを聞いた。手元では、注いだばかりの酒がもう底を見せ始めている。
「魔王本人とも、対峙した。あれは恐ろしい相手だった。今思い出しても、震えが来る」
「勝ったんですよね?」
「勝った。パーティーの誰かが、最後の一撃を入れた」
「誰かって、ゴルドさんじゃないんですか」
「いや、俺じゃない。誰か、他の奴だ」ゴルドは少し首を捻った。「誰だったかな。思い出せん」
自分がいたはずの決定的な場面を、思い出せない。オレはグラスを拭く手を止めていた。背筋を、細い冷たさが撫でていく。武勇伝が怖いのではない。語っている本人が、自分の話の底が抜けていることに気づいていない。その無自覚のほうが、うなじの毛を逆立てた。
しばらくして、ゴルドはまた同じ話を、少し違う言葉で語り始めた。今度は「氷漬け」ではなく「炎で消し飛ばした」になっていた。時期も「十五年前」ではなく「もう二十年近く前」と言う。おかわりを頼む合間に、まるで初めて話すような顔で、また武勇伝の冒頭を繰り返す。本人には、繰り返している自覚すら、なさそうだった。
語りが一周するあいだに、グラスは三度空になった。ゴルドは酔うほど饒舌になるのではなく、酔うほど同じ場所を回り始める。回転木馬のように、同じ景色が違う速さで通り過ぎていく。オレはそのたびに酒を注ぎ足した。注ぐ手だけが、進まない話の埋め合わせをしていた。
前の四人目の話も、聞くたびに細部が違っていた。性別が変わり、時期が変わり、ピィ二枚の日当だけが、なぜか毎回そのまま残った。今この武勇伝も、同じように輪郭が揺れている。揺れているのに、語り口だけは自信に満ちていた。そこが、いっそう据わりが悪い。
「ゴルドさん、さっきと、ちょっと話が違いません?」
「そうか?」
ゴルドは本気で驚いた顔をした。誤魔化そうとしている顔ではない。本当に、自分でも気づいていなかったような、素の驚きだった。
「酔ってるからじゃないですか」
「かもしれんし、そうじゃないかもしれん」
ゴルドは、グラスの中の酒をじっと見つめた。
「実はな、嬢ちゃん。俺はこの手の昔話をする度に、細部が違うことに、自分でも薄々気づいてる。だが、どれが本当だったか、突き詰めて考えると、頭の芯が痺れたようになる。だから、考えるのをやめた」
「それ、怖くないですか」
「怖い。だが、この世界じゃ、珍しいことでもない」
ゴルドは店の中を見渡した。
「よくよく聞いてみりゃ、誰の武勇伝も、語るたびに少しずつ形を変えてる。年寄りの記憶違い、で片付けりゃそれまでだが――俺は時々思うんだ。この世界の記憶ってのは、そもそも、そういう作りをしてるんじゃないかってな」
ゴルドはそこで言葉を切り、グラスの縁を指でなぞった。爪の黒ずんだ、節くれだった指だ。その指が、乾いた小さな音を立てて縁を一周する。オレは相槌を打ちそこねて、注ぎ足すはずの酒瓶を持ったまま止まっていた。
言われてみれば、店のあちこちで、似たような昔話が今夜も転がっている。隅の卓では、誰かが討った覚えのある魔物の大きさを、両手を広げて語っていた。その両手の幅は、たぶん先週より広い。来週にはもっと広がる。誰もそれを咎めない。武勇伝とは、そうやって育つものだと、皆どこかで知っているからだ。育つ話と、育たない話。ゴルドの言い分を借りるなら、そのどちらもが、この世界の記憶の作りだということになる。
「魔王ってのは、な」ゴルドは続けた。「倒しても、また出てくる。俺が倒した魔王も、また別の誰かが、いずれ倒すことになる。倒しても、戻る。あれは、そういうもんだ」
「戻るって、また同じ魔王が?」
「同じかどうかは、誰にも分からん。同じように見えて違うのか、違うように見えて同じなのか。ただ、魔王がいなくなった世界を、俺は見たことがない。誰も、見たことがないはずだ」
『魔王討伐 常設 達成者なし』。ギルドの掲示板に、何十年も貼りっぱなしの一枚。誰も気に留めず、剥がされもしない。あの紙がずっとあそこにある理由が、今、少しだけ形をとった。倒しても、また貼り直される。達成されないのではない。達成しても、振り出しに戻る。終わりのない依頼書だ。
「それ、諦めてます? 怒ってます?」
「どっちでもない」ゴルドは笑った。「そういうもんだ、って納得してるだけだ。納得と諦めは、似てるようで違う」
その顔には、いつもの陽気さの奥に、長い年月が積み上げた重みがあった。
「でも、な」
ゴルドは、ふと声の調子を変えた。
「竜みたいな格上と、正面からやり合って、生きて帰ってきた奴も、いるにはいる」
「え、誰ですか」
「うちの嫁だ」
オレは思わず、グラスを磨く手を止めた。
「マルヴァさんが、竜と?」
「――いや、言葉が過ぎた。忘れてくれ」
ゴルドは急に居心地悪そうに視線を逸らした。珍しく、その頬が、酒の赤みとは別の色に染まっている。
「気になるじゃないですか、それ!」
「気にするな。酒の席の話は、正確さを求めるだけ無駄だと、俺自身が言ったばかりだろう」
「都合のいい時だけそれ使いますね!」
ゴルドはそれ以上、何も語らなかった。話題を逸らすことにかけては、この爺さんは天才的だ。だが、逸らしたその横顔に、逸らしきれなかったものが一つ、居残っていた。マルヴァという名の輪郭が、また一つ濃くなる。
会ったこともない女だ。ゴルドの女房で、竜と渡り合ったらしい、という以外、オレはまだ何も知らない。それなのに、断片が一つ増えるたび、その像だけが妙な確かさで立ち上がってくる。噂で会う、というのは、こういうことなのだろう。名前と、切れ端の逸話。オレの手元にあるのは、それだけだ。
セラが離れた席から、こちらの会話を聞いていたらしい。帳簿から顔を上げず、低い声で言った。
「マルヴァ姐さんの武勇伝は、ゴルドさんの話より、もっと厄介よ」
「厄介って?」
「あの人の話は、誰に聞いても、細部までぴったり一致するの。ぶれない。むしろ、それが不気味なくらい」
ぶれる伝説と、ぶれない伝説。
オレはグラスを拭きながら、その二つを頭の中で並べてみた。ゴルドの武勇伝は語るたびに形を変える。マルヴァの話は、誰の口を通っても寸分違わない。同じ酒場で交わされる昔話なのに、片方は水のように形を失い、片方は石のように動かない。
一つ、いちばん素直な説明。ゴルドが老いて記憶が緩み、マルヴァはまだそこまで緩んでいない。年の差の問題だ。だが、これはすぐ引っかかる。ゴルドの話が食い違うのは細部だけで、魔王と戦って勝った、という芯は一度もぶれない。ぶれるのは氷か炎か、十五年か二十年か、飾りの部分ばかりだ。老いで緩むなら芯のほうから曖昧になりそうなのに、そこだけは彫り込んだように動かない。
二つ、語り手の違い。自分の手柄は盛るたびに形が変わり、他人の武勇は伝えるだけだから変わらない。ゴルドは自分の話をし、セラはマルヴァの話を聞いた通りに運んでいる。……それらしい。それらしいが、では、なぜ「聞いた通り」がこうも揃うのか。人の口を何度も渡った話は、伝言遊びのようにどこかがずれる。伝わるほどに歪むのが普通なら、マルヴァの話だけがずれないのは、いっそ不自然なくらいだ。
三つ目を数えかけて、オレは酒瓶を置いた。並べようとすると、ゴルドの言った「頭の芯が痺れる」感じが、こっちにも薄く移ってくる。深追いするな、と勘が言う。……いや、勘というのは便利な逃げ口上だ。ただ、答えの出ない問いから離れたいだけだろう。
どちらの伝説が正しいのか、という問いではない。たぶん、問いの立て方から、もうどこかずれている。ぶれる記憶とぶれない記憶が、同じ世界に並んで転がっている。その一点だけを、今夜はそのまま抱えて帰るしかなかった。
カウンターの隅で、ドランがすでに突っ伏していた。その寝息を数えながら、オレはこの店で繰り返されてきた無数の夜を思う。何人の客がここで武勇伝を語り、何人が、その武勇伝を少しずつ違う形で持ち帰ったのか。夜が更け、灯りが一つ、また一つと落ちていく。手のひらのグラスは、拭いても拭いても、次の客の分がまた出てくる。オレの指はもう、この店の夜の重さに馴染み始めていた。
窓の外はとうに暗い。街の音が一つずつ間引かれて、残るのは店の中の音だけになっていく。皿を重ねる音、燠の爆ぜる音、酔いどれの寝息。それらが、昼の街の物音が抜けていった穴を、順番に埋めていくようだった。厨房のシチューはとうに火を落とされて、匂いだけが天井の梁に薄く残っている。
――倒しても、戻る。あれは、そういうもんだ。
ゴルドの言葉が、耳の奥でもう一度鳴った。その、諦めだか納得だか分からないものが、この世界の底に、水のように横たわっている。オレはまだ、それを掬い上げる言葉を持っていない。
どうやら、この世界の記憶というのは、思っていたより、ずっと不確かなものらしい。