第10話 アルトの過去
第十話 アルトの過去
翌朝、アルトの様子がおかしかった。
朝食の席で、いつもの「誰か得意な人が」すら出てこない。パンを千切る手はいつもより小さく、遠慮がちに動いている。手拭いを畳み直すのはいつも通りなのだが、回数が明らかに多い。三度、四度、五度。畳んでは開き、開いては畳む。指先だけが先に目を覚まして、主人の不安を黙々と処理しているようだった。
セラは帳簿から目を上げず、それでいて羽根ペンの動きが、アルトが手拭いを畳むたびに一拍だけ遅れた。ゴルドは何か言いかけて口を開き、結局その口に黒パンを放り込んだ。二人とも気づいている。気づいた上で、踏み込まずにいる。
「アルトさん、大丈夫ですか」
「え、あ、はい。大丈夫です。何でもないです」
何でもない顔ではなかった。昨夜のザックの一言――「勇者の剣が、鏡面だと?」――が、まだ胸の底に刺さったままなのだろう。刺さった棘は、抜くより馴染ませる方が楽なこともある。ただ、この人の棘は、馴染ませてはいけない種類に見えた。
オレは洗濯物を干す口実でアルトを外に連れ出した。宿の裏手、井戸端の小さな空き地に、二人分の沈黙が降りる。井戸の縁には苔が薄く生え、水を汲み上げる滑車が、風もないのに時折きしんだ音を立てた。汲んだばかりの水は指の芯が痛むほど冷たい。絞った布から落ちる雫が、乾いた土に丸い染みを作っては消えていく。物干し紐は宿の壁と杭の間に一本きりで、布を掛けるたびに紐がたわみ、乾いた軋みを立てた。遠くでクルルがひと声だけ鳴いた。
「あの、聞いてもいいですか」
オレは布を絞る手を動かしたまま切り出した。向かい合って聞くより、手を動かしながらの方が、重い話は転がり出やすい。酒場のカウンターで覚えた知恵だった。
「な、何でしょう」
「アルトさんって、どうして勇者を名乗ったんですか」
アルトの手が止まった。畳みかけていた手拭いをそのまま膝の上に置く。
「変な質問ですよね、すみません」
「いえ、その、変じゃないです。ただ……ちゃんと考えたこと、あんまりなくて」
アルトは遠くを見るような目をした。朝の光が桶の水面で割れて、その頬に揺れる模様を落としている。剣を持つには不向きに見える細い指が、無意識に膝の上の手拭いをなぞる。
「僕の生まれた村、小さな村だったんです。ある年、魔物の群れが出て。大人たちは、みんな逃げるか、隠れるかしかできなかった」
小さな村。夕方には家々から同じ色の煮炊きの煙が上がり、井戸端に女たちの笑い声が集まって、それで一日が閉じる。アルトの声の柔らかさが、そういう景色を勝手に運んでくる。畑の土の匂いまでしそうだった。
「僕もです。僕も、隠れました。物置の裏に。震えて、耳を塞いで」
物置の裏。黴と藁の匂い。板壁の隙間から差し込む、夕方の細い光。そこにうずくまる、今よりずっと小さいアルト。
声が少しだけ小さくなる。手拭いを握る指先に力がこもっているのが分かった。
「外の音は、全部聞こえてました。悲鳴とか、何かが壊れる音とか。でも、耳を塞いでも、聞こえてくるものは聞こえてくるんです。塞いだのは、たぶん、自分を誤魔化すためだけでした」
木の裂ける音。誰かが誰かの名を呼ぶ声。地面を伝って腹の底に届く、重いものの足音。塞いだ両手の内側では、自分の心臓だけが際限なくうるさい。
オレは絞りかけの布を持ったまま動けなくなっていた。井戸の水で冷えた指に、湿った布の重みだけがぶら下がっている。酒場でなら、こういう時に注ぎ足す酒がある。ここには何もない。だから黙っていた。喉の奥が乾いて、唾を飲む音さえ大きく響きそうで、それすら遠慮した。
「隣の家の、おばあさんが、逃げ遅れて。誰も助けに行かなかった。僕も、行きませんでした。行けませんでした」
行きませんでした、と言ってから、行けませんでした、と言い直した。言い直す間、アルトの指は手拭いの同じ角をずっと折り続けていた。
風が井戸の縁を撫でて通り過ぎた。湿った布の匂いに、裏手の家の竈のものだろう、薄い煙の匂いが一筋だけ混ざる。それだけのことで、アルトの肩がわずかに動いた。
「結局、通りがかりの冒険者が助けてくれたんです。あの人がいなかったら、おばあさん、死んでました」
焦げた匂いの残る村道を、知らない背中が老女を負って歩いてくる。集まる村人。安堵の声。その輪の外、物置の陰から出られないままの少年がひとり。
助けた側はたぶん、次の街に着く頃には村の名前も忘れている。動けなかった側だけが、何年でも覚えている。記憶というのは、重さの分だけ残る場所が違うのだ。
アルトはそこで一度、深く息を吸った。
「その時、僕、思ったんです。次に何かあった時、また同じように隠れるんだろうな、って。自分がどういう人間か、その時、はっきり分かった気がして」
「それで、勇者を」
「はい」
アルトは初めてまっすぐにオレを見た。
「勇者って、名乗ったら、もう、逃げるわけにはいかない自分になれるんじゃないかって、思ったんです。剣を持って、勇者だって周りに言って回れば、隠れることが、できなくなるんじゃないかって」
……自縄自縛。
名乗ることで自分を縛る。逃げ道を自分の手で塞ぐ。名前なんかで人が縛れるものか、と言いかけて、やめた。縛れるのだ。オレは毎朝「ミア」と呼ばれるたび、ミアの顔とミアの声で応じてしまう。名前は呼ばれるたびに、中身を少しずつその形へ押し固めていく。鋳型のようなものだ。アルトはその鋳型を自分で選んで、自分に被せた。誰に強いられたわけでもなく。弱さの告白のようでいて、たぶん、この人が今までにやった中で一番荒っぽい賭けだった。
「でも、実際は、全然駄目で」アルトは力なく笑った。「勇者って名乗ったのに、今でも、戦いの場では足が竦みます。剣を抜くことすら、ほとんどない。この剣、見てください」
差し出された剣を、オレは受け取った。ずしり、と思ったより重い。グラスと盆しか知らないオレの手首が、素直に驚いている。柄は確かに手垢で黒く光っていた。握り込んだ回数だけは間違いなく多い。鞘を滑らせると、刀身は鏡のように綺麗なままだった。傷一つない。井戸端の空と、オレの間の抜けた顔が映り込む。
「握ってばかりで、抜けない。それが、僕の勇者っぷりです」
「でも」オレは剣を返しながら言った。「その剣、捨ててないですよね」
「え?」
「抜けなくても、握ってるだけでも、捨ててない。それって、逃げてないってことじゃないですか」
アルトは目を瞬かせた。
「捨てたら、その瞬間、僕は、また隠れる人間に戻ってしまう気がして。だから、抜けなくても、持ってるだけは、続けてます」
「それ、充分、勇者だと思います」
「そんな、大袈裟な……」
「大袈裟じゃないです。ザックさんの言う勇者は、装備が新品で、口上が長くて、剣を抜く自信に満ちてます。でも、アルトさんの勇者は、震えながら、それでも捨てずに持ってる勇者です。種類が違うだけです」
言いながら、オレは自分の言葉に少し驚いていた。誰かを励ますつもりで喋ったわけではない。思ったことがそのまま口から出ていた。接客の声でもなく、取り繕いの敬語でもない。この声が四層のどれなのか、勘定する気にもなれなかった。ただ、胸の奥が、客に礼を言われた時と同じ温度で少しだけ軽くなっていた。
アルトはしばらく黙っていた。井戸の滑車がまたひとつきしみ、桶の水面が揺れて、映っていた空を崩す。それから、ぽつりと言った。
「――ミアさんも、似てますね」
「え、アタシが?」
「臨時の四人目、ですよね、書類上は。でも、もう十日近く、一緒にいます。書類は臨時のままなのに、実際は、ずっと、続いてる」
……言われて気づいた。
書類の上ではアルトは「勇者」。だが本人は、その肩書きに見合う自分だとは少しも思っていない。書類の上ではミアは「臨時の四人目」。だが本人は、もう十日分の記憶と実感を積み上げている。肩書きが先で中身が追いつかない男と、中身が先で肩書きが追いつかない女。ズレの向きは正反対なのに、抱えている隙間の形はよく似ていた。
肩書きと中身がズレる話、前にもどこかで山ほど見た気がする。プロフィールと実物、とでも言うのか。……何の話だったか、もう思い出せない。
「アルトさんの剣、抜けなくても、そこにあることに意味があるって、さっき言いましたけど」オレは干し終えた布の皺を叩いて伸ばしながら続けた。「アタシの『臨時』も、同じですね。書類が更新されなくても、ここにいることには、たぶん意味がある」
アルトが初めて少しだけ笑った。いつもの申し訳なさそうな笑みとは違う、少しだけ軽い笑みだった。
「――ありがとうございます、ミアさん」
「なんでお礼言われてるのか、分からないですけど」
「なんとなく、です」
頭の上で洗濯物が風を受けてはためいた。飾り気のない布ばかりが物干し紐いっぱいに並んで、同じ風に同じ向きへ膨らんでいる。アルトは膝の上の手拭いをもう一度だけ畳み直した。今度は一度きりで、手が止まった。
その日の午後、宿に戻るとセラが帳簿を広げて待っていた。
「二人とも、どこ行ってたの」
「ちょっと、井戸端会議です」
「井戸端で何を話すことがあるのよ」
「秘密です」
セラは片眉を上げたが、それ以上は追及してこなかった。ただ羽根ペンの先でアルトの顔をちらりと示し、それから小さく頷く。帳簿の数字が合った時と同じ頷き方だった。羽根ペンは何事もなかったように帳簿へ戻っていく。詮索しないのも、あの人なりの勘定なのだろう。
ゴルドが酒瓶を片手にやってきて、豪快に笑った。
「アルトの顔つきが、心なしか良くなったな」
「え、そうですか?」
「昨日は借りてきた猫みたいな顔してたが、今日は、猫は猫でも、少し胸を張った猫だ」
「猫は胸を張らないと思います」
「張る猫もいる。俺は見たことがある」
「見たことないですよ、そんな猫」
いつもの軽口の応酬が戻ってくる。その軽口の下で、昨日までとは違う地面が一段固まった手応えがあった。
夜、寝床に入っても、右の手のひらに剣の重さが残っていた。
柄の感触を指が覚えている。手垢で黒く光った、握られ続けるだけの柄。オレの手はグラスと盆の重さしか知らないはずなのに、あの重さだけは妙に手に残って消えない。階下では女将が竈の火を落とす音がして、隣の部屋からはゴルドの鼾が届く。壁の薄い宿の夜は、音の頭数で誰がいるか分かる。
書類は人柄を問わない。ギルドの証には「遊び人」としか書かれていないし、アルトの証にはきっと「勇者」としか書かれていない。だが書類が問わないその隙間で、あの人は古い棘を握りしめ続け、オレは十日分の実感を積み上げている。数字にならず、報酬にも換算されない。換算されないものの置き場所を、この世界は書類の外にちゃんと用意してある。……いや、用意というより、書類が追いかけてこないだけか。どちらでもいい。追いかけてこないなら、そこは好きに使える。
と、いっぱしのことを考えたところで、明日のオレの仕事は変わらない。皿を運び、依頼に付いていき、爺さんの手癖を数える。それでも、アルトの抜けない剣と、オレの更新されない書類は、たぶん同じ棚に置いてある。そう思えたことだけが、今日の実入りだった。
手のひらを一度握って、開く。抜けない剣が確かに重かったことを、書類は知らない。オレの手が覚えていれば、それでいい。