第8話 赤字の治療
第八話 赤字の治療
「――これ、受けるんですか」
オレは、掲示板に貼られた依頼書を二度見した。朝一番のギルドは、まだドリスが受付の椅子を温め始めたばかりで、羊皮紙特有の乾いた匂いと、誰かが持ち込んだままの湿った革鎧の匂いが薄く漂っている。窓から差し込む朝の光の中で、埃がゆっくりと舞っていた。
『コルム村 牙鼠駆除および負傷者手当 報酬:応相談(村の事情によりごく僅少)』
「受けるわよ」セラが即答した。
「赤字確定じゃないですか、これ」
「確定してるわね」
……即答で認めた。しかも、まったく悩んだ様子がない。
「セラさんらしくないです。損得で動く人でしょう、あなた」
「損得で動いてるから受けるのよ」
……意味が分からない。
ハイベルを発ったのは、まだ朝靄が地面を這っている時刻だった。石畳の感触が、途中から踏み固められた土の道に変わり、それすらも次第に轍だらけの田舎道になっていく。街道の両脇に並んでいた露店や旗も、やがて姿を消し、代わりに乾いた畑と、まばらな生垣が続くようになった。
半日という距離感は、歩いてみるとやけに実感がある。都市の喧騒が遠ざかるにつれ、空気の匂いが変わった。土埃と、家畜と、微かな腐葉土の匂い。ハイベルの、酒と煙と人いきれの匂いに慣れた鼻には、妙に懐かしいような、それでいて馴染みのないような匂いだった。
――この感覚、知ってる気がする。
都会育ちの人間が田舎に来て懐かしさを覚える、という理屈なら分かる。だが、オレの中の「懐かしい」は、もっと奇妙な場所から来ている。前世の記憶、とでも呼ぶしかない何かが、田舎の匂いなど知っているはずもないくせに、勝手に反応している。単なる錯覚か、それとも別の何かか。考えても、答えは出ない。この手の考察は、いつも同じところで行き止まりになる。
コルム村は、ハイベルから半日ほどの小さな農村だった。畑は痩せ、家々の壁は所々崩れかけている。井戸端に集まっていた女たちが、こちらを見ては小さく会釈し、すぐに視線を伏せた。子供の姿が、妙に少ない。動ける子供は皆、大人の手伝いに駆り出されているのだと、後で知った。どこかで犬が一声だけ吠え、すぐに黙った。村長らしき老人が、申し訳なさそうに出迎えた。皺だらけの手が、無意識に胸の前で組まれては解かれるのを繰り返している。
「本当に、すまない。まともな報酬も出せんのに」
「事情は聞いています」セラが淡々と応じる。「牙鼠の被害、詳しく」
村長の説明によれば、二月ほど前から、牙の生えた鼠の群れが村の穀物倉に住み着き、食料を食い荒らすだけでなく、追い払おうとした村人たちに次々と嚙みついているという。
「もう、うちの若い衆は、みんな手や足に噛み傷を負ってる。年寄りは、動くだけで痛むって者もおる」
村の広場には、包帯を巻いた住民たちが何人も座り込んでいた。傷は、放置されて膿んでいるものもある。傷口から漂う鉄錆に似た匂いと、湿布に使ったらしい薬草の青臭さが混ざり合い、鼻の奥に張り付いた。老人も、壮年の男も、乳飲み子を抱えた女も、等しく列に並んでいる。誰も声を荒げない。ただ、痛みに慣れた顔で、順番を待っていた。
その光景に、胸の奥が少し痛んだ。前世の記憶が疼いているのか、こっちで覚えたばかりの感覚なのか、判然としないその痛みに、名前をつける気にはなれなかった。
牙鼠の駆除自体は、あっさりと片付いた。穀物倉の暗がりから飛び出してくる鼠は、体長が猫ほどもあり、剥き出しの牙は黄色く濁っている。土埃が舞い、鼠の甲高い鳴き声と、ゴルドの拳が空気を裂く音が交錯した。拳が唸るたびに、鼠は面白いように吹き飛んでいく。アルトも今日は少しだけ前に出て、震えながらも数匹を斬り伏せた。手拭いを握り直す仕草の合間に、剣を握り直す仕草が挟まる。震えは消えないが、足だけは、以前より半歩、前に出ていた。
「僕でも、やれば、その、やれるんですね……」
本人が、一番驚いていた。
オレは倉の入口を塞ぐ役に回り、逃げ出そうとする鼠を箒で押し返す係に徹した。地味な仕事だが、誰かがやらねばならない。遊び人の本領は、こういう時にこそ発揮される。誰も褒めてはくれないが。
問題は、その後だった。
「セラさん、依頼の対象は駆除だけですよね。治療は――」
「治療も込みで受けたわ。全員、診るわよ」
セラは、広場に座り込む住民たちを一人ずつ回り始めた。噛み傷、擦り傷、古い持病の痛み。依頼書に書かれていない範囲まで、すべてに手をかざしていく。使う薬草も、安物ではなく、質の良いものを惜しみなく使っていた。
列の後ろの方で、小さな諍いが起きていた。
五つか六つほどの男の子が、母親らしき女性の背中にしがみつき、セラの手が近づくたびに顔を歪めて泣きそうになっている。
「痛いのやだ……」
「痛くしないわよ。ただ、傷を診るだけ」
セラの声は、いつも通り抑揚がない。事実だけを述べる声だ。だが、その平坦さが、怯えた子供には逆効果に働いた。男の子は、ますます母親の後ろに潜り込んでいく。
思わず膝を折って、目線を合わせた。声を作る。層の一番――接客の声だ。身体が勝手に、その型を思い出す。
「あら、お客様、今日はどんなご用件で♪ ……なんてね。傷、痛いところ、ちょっとだけ見せてもらってもいいですか? お姉さん、実はこう見えて、痛いのを痛くなくする魔法、知ってるんです」
「うそだ」
「うそじゃないですよ。ほら、こうやって――」
オレは、男の子の手をそっと取り、傷のない側の指先をくすぐるように撫でた。ついでに、酒場で酔客相手に散々鍛えた作り笑いを全開にする。愛想笑いにも、年季というものがあるらしい。
男の子が、ふす、と小さく笑った。緊張が、わずかに緩む。背中に隠れさせていた母親の顔からも、いつの間にか強張りが抜けていた。
「……もう一回」
「いいですよ、何度でも♪」
その隙に、セラの手が、傷にすっと触れた。男の子は、痛みに気づく前に、治療が終わっていた。
「あれ……もう、終わり?」
「終わりよ」
セラは、帳面に何かを書き込みながら、横目でオレを見た。
「今の、悪くなかったわね」
それだけ言って、もう次の村人の傷を覗き込んでいる。オレは、緩みそうになる口元を、客用の笑顔でごまかした。
「セラさん、これ、依頼の報酬じゃ全然足りませんよ」
オレは思わず口を挟んだ。持ってきた薬草の量と質を見れば、素人目にも分かる。この依頼、確実に赤字だ。
「知ってる」
「知ってて、なんでこんなに――」
「治療の質を落とすと、あとで高くつくのよ」
セラは、手を止めずに続けた。
「中途半端に治すと、傷が膿む。膿めば、次はもっと重い治療が要る。もっと悪ければ、腕を落とすことになる。今日、安い薬でケチって、来月、もっと高い治療費がかかるくらいなら、今、確実に治した方が安上がり」
「それ、今回に限っては、今の出費が確実に赤字ですよね」
「今回だけ見ればね」
セラは、老婆の腕の古傷に手をかざしながら続けた。
「でも、この村が今後もギルドに依頼を出す村になるか、二度と依頼を出さない村になるかは、今日の治療の質で決まる。今日ケチったら、この村は次から別のギルドを頼る。信用は、一度失うと高くつく」
……理屈は、あくまで損得だった。だが、その損得の射程が、目の前の帳尻ではなく、もっと長い時間軸を見ている。
「セラさん、それ、優しいって言われません?」
「言われない。言われても否定する」
「なんで否定するんですか」
「優しさは、対価を求めない行為のことを言うんでしょう。私のは、全部、長期的な計算。似て非なるものよ」
「じゃあ、アタシが今、セラさんに感謝しても?」
「感謝されても、次の依頼で割引はしないわよ」
「そこは、ちょっとくらい甘えさせてくださいよ」
「甘えは、経費に計上できないの」
……頑固な人だ。その頑固さの形が、少しだけ好ましかった。
治療がすべて終わる頃には、日が傾きかけていた。村長が、しわがれた声で何度も礼を言った。
「本当に、すまない。この礼は、いつか必ず」
「結構です」セラが帳簿を閉じながら言う。「ギルドへの信頼を、繋いでおいてくれれば」
村を出る道すがら、風の音に、あの乾いた音が重なった。広場の隅の粗末な祠で、村人たちの結んだ古びた木札が鳴る音だ。行きしなに、その一枚が目に入っていた。
文字は、いつもの通り読める。だが形は初見だ。
『どうか、私たちに効く手を』
……効く。
その言葉が、頭の奥で何かに触れた。
――効かせる女。
輪郭だけの記憶が、また浮かんだ。誰の言葉だったか。いつ、どこで聞いたのか。今日も、答えは出なかった。ただ、「効く」という言葉に触れるたびに、その記憶の切れ端だけが、静かに疼く。誰かに向かって放たれた言葉なのか、誰かがオレに向かって放った言葉なのか。それすら定かではない。接客業の褒め言葉と取るなら、上等な部類の響きだ。だが、それにしては、思い出すたびに、胸の奥が微かに締まる。まるで、その先に続く台詞があるのに、口が覚えていないような感覚だった。柄にもなく湿っぽい考えだと、自分でも思う。オレは、それを深追いしなかった。追えば追うほど、指の間から零れていく類いの記憶だと、もう身体が知っていた。
夜、宿に戻る頃には、外はとっぷり暮れていた。安宿らしい軋む木の階段、燭台の頼りない灯り、微かに漂う獣脂蝋燭の匂い。全員、日中の駆除と治療の疲労で、口数が少ない。ゴルドは椅子に腰かけたまま、既に舟を漕ぎ始めている。アルトは手拭いを畳んでは開き、畳んでは開きを、無言で繰り返していた。セラだけが疲れた顔も見せず、帳面を広げた。
「今回の報酬、ピィ十六枚。四人均等割りでピィ四枚ずつ」
「治療の薬草代は」
「全部で二十枚。私が個人で立て替えたわ」
「え、パーティーの取り分から引かないんですか」
「これは私の判断で使った分。あんたたちの取り分から引く筋合いじゃない」
……セラは、自分の取り分どころか、実質的に自腹を切っていた。パーティー全体では十六枚の収入に対し、二十枚の支出。差し引き四枚の赤字を、セラ一人が被っている計算になる。
「セラさん、それ、結局、赤字を自分で引き受けてるじゃないですか」
「引き受けてない。長期投資よ」
「四枚の赤字が、どう長期投資になるんですか」
「あの村が、来月また依頼を出したら、その時の報酬で回収する。回収できなかったら、それはそれで、私の見立てが甘かったってだけの話」
「じゃあ、今日の男の子の一件も、長期投資の一部ですか」
「あれは――」珍しく、セラが言葉に詰まった。「効率の話よ。子供が泣き喚くと、治療に時間がかかる。だから、あんたの茶番も、経費削減の一環」
「茶番て」
「褒めてるのよ、それでも」
……見事なまでの理屈武装だった。だが、その理屈の鎧の隙間から、別のものが時折り覗いている。本人が計算だと言い張る以上、オレも、計算だということにしておく。
「セラさん、じゃあ結局、この依頼――」
「失敗よ」
食い気味の即答だった。
「ギルドの書式には、達成と未達成の欄があるの。支出が報酬を上回った依頼は、中身がどれだけ良くても未達成に丸がつく。今回は、それ」
「治療、あんなに完璧だったのに」
「完璧だったかどうかと、依頼が成立したかどうかは、別の欄なの」
帳面の隅の小さな枠に、羽根ペンが迷いなく「未達成」側へ線を引いた。数字は嘘をつかない。嘘をつかないぶん、時々、素っ気ない。
舟を漕いでいたはずのゴルドが、薄目を開けて、ぽつりと言った。半分寝ていたくせに、都合のいいところだけは耳に入るらしい。
「拳聖ガローは言った――『運命を書いてる奴がいるなら、そいつが人間に払う一番の礼儀は、望むものを一度も出さねえことだ』」
「誰ですか、それ」
「昔の師匠だ。たぶん、会ったこともある」
「たぶんって」
「――つまり、これでいいのだ」
妙に据わりのいい締めくくりだった。中身はほとんど何も言っていないのに、湿った空気だけがふっと軽くなる。深そうで、実は自己弁護でしかない。ゴルド一流の格言だった。
その一言に、頭の奥で何かがすっと引いた。
――知ってる、この感じ。
俯瞰、とでも呼ぶしかない一拍。見下ろす先は宿の天井ではなく、もっと平べったい、四角い光の集まりだった。文字だけが上から下へ、際限なく流れていく。
『今回も引き延ばしか』
『望んだ展開、一回も来たことないよな、この作者』
誰かの不満が、積み上がっていく。望まない方へしか転がらない物語を、それでも追うのをやめなかった、あの執着の温度だけが掌に残っている。喉の奥で、聞き慣れた節回しがせり上がりかけて、寸前で止まった。
「――ミア?」
セラの声に、視界が宿の一室へ戻る。喉に軽く触れると、せり上がりかけていたものは、もう形を失っていた。
窓の外、宿の裏手に伸びる畑地から、夜風が土と草の匂いを運んでくる。見上げれば今夜も、知らない並びの星が瞬いている。だが今日に限っては、目より先に、鼻が世界を覚えようとしていた。懐かしいはずのない匂いを、胸の底まで吸い込んでみる。虫の声が、ハイベルの雑踏よりずっと近くで鳴いていた。
依頼としては、失敗だったらしい。ギルドの書式は、きっとそう記録する。
赤字にも、種類がある。今日の四枚は、胸の奥がすこし温かくなる方の赤字だった。